Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

吉田正尚, 長谷川晶一『決断:カンボジア72時間』主婦の友社 783.7

申し訳ないけど,野球の話がいちばん面白い。あと吉田の奥さんの数々のコメント。

共著ということになっているライター(長谷川)の〈私〉が前面に出てきているのが,違和感だな。かといって,松山英樹みたいに,明らかにゴーストライター立ててるのに〈僕〉語りされるのも,それはそれで違和感なんだけど。

はじめに 僕が、カンボジア行きを決めた理由

誤解しないでほしいのは、「僕がチャリティ活動をしている」ということを知ってほしいのではなく、絶対的貧困や人身売買に苦しんでいる子どもたち、学校に通いたくてもそれができない子どもたちが、世界にはたくさんいるのだという事実を、多くの人に認識してほしいということだ。

そんな関係が数年続いたある頃、僕の心境にも少しずつ変化が訪れてきた。 それは、「支援する側」と、「支援される側」という、ある種の上下関係ではなく、もっとフラットに、もっと気軽に子どもたちとの関係を築きたい。もっと身近に子どもたちのことを感じたいという思いが強くなってきたのである。

プロローグ ベトナム航空・VN301便

徹夜明けで、早朝の成田空港へ

成田空港から始まり、成田空港で終わる72時間。 私の視線の先には、常に現役メジャーリーガー・吉田正尚の姿があった。

そして、カンボジアへ

吉田 カンボジアやフィリピン、バングラデシュなど、開発途上国で貧困に苦しむ子どもたちのために、少しでも支援できるようにと思って、始めることにしました。

第一章 カンボジア行きが決まるまで

突然決まったカンボジア取材

カンボジアでどのような取材をするのか、どんな原稿を書けばいいのかは後でじっくりと詰めていけばいい。まずは「吉田と一緒にカンボジアに行く」ということが、私にとってとても魅力的に感じられた。

NPO法人BLFができるまで

BLFの代表を務めるのが岡田真理だ。彼女は作家、脚本家であり、同時にBLFの設立者でもあり、長年にわたって吉田のチャリティ活動のサポートをしている。

BLFと吉田正尚の幸福な出会い

BLF・岡田真理代表と吉田正尚との出会いは、彼がプロ入りした16年オフにさかのぼる。吉田と交流のあったスポーツアナウンサー・筋規都でからの紹介だった。後にBLFの副代表となる節丸は、岡田にこんなことを告げた。 「プレイヤーとしてはもちろんだけど、人間性もすばらしい選手がいるので、ぜひ紹介したい。将来、彼は必ず日本を代表する選手になるはずです」

「吉田選手はまず難病の子ども、そして開発途上国の子どもへの支援を挙げました。それを受けて、本人とじっくりと話し合いました。当時は、いや、今でもそうですけど、国内支援をするアスリートは多いんですけれど、国際支援をしているアスリートは少なかった。そんな話もしました。さらに、彼の子どものときの記憶もあって、最終的には開発途上国の子どもへの支援が決まりました」

国際協力NGO・国境なき子どもたち

BLFはNPO団体であり、KnKはNGO組織である。両者はともに非営利組織ではあるが、その性格は若干異なる。一般的には、NPOが地域密着型、国内活動が中心であるのに対して、NGOは国際交流や人道支援に主眼を置いて活動するものである。

「15歳の壁」を打破すべく

幼い子どもは体力的に弱く、より多くの危険にさらされる可能性が高いため、比較的施設などで保護を受ける機会に恵まれています。しかし、援助施設のスペースには限界があり、15歳前後になると、やむを得ずそこから立ち去らなければならない現実がありました。自立するすべを知らない彼らが施設を出た後には、厳しい路上生活への逆戻りか、非行グループへの参加、あるいは劣悪な環境での労働などが待ち受けています。 一定の年齢になったという理由で支援を受けられなくなる。 私たちはそれを「15歳の壁」と呼んでいます。

それは、「取材」ではなく、一個人としての好奇心であった。「好奇心」という言葉が適切なのかどうかはわからない。しかし、吉田によって、それまでまったく関心のなかったカンボジアについて、そして絶対的貧困にあえぐ子どもたちについての興味を抱くようになったのは紛れもない事実である。この時点ですでに、吉田に対する感謝の思いが芽生えていた。私はこれから、今までまったく知らない世界についての取材を行う。

支援先はカンボジア、フィリピン、バングラデシュに

「岡田さん、宮本さんとのミーティングの中で、私たちはカンボジア、フィリピン、バングラデシュの3カ国を提案させていただきました。この中から1カ国を対象としてもいいし、3カ国すべてでもいい。それは吉田選手のご判断に任せようと話し合いました」 吉田からの返答は「どれか一つに選ぶことはできない。せっかくの機会なので、3カ国すべてに支援したい」というものだった。

クラウドファンディングで多くのファンを巻き込む

「ただ、私にとって想定外だったのが、彼の口から“書籍化もいいけど、せっかくならばクラウドファンディングも計画して、多くの人を巻き込む形にしたらどうでしょう?”と提案を受けたことでした。私たちにはその発想はなかったけれど、すごくいいアイディアだと思いました。彼はいつも、さらなる提案をしてくれるんですけど、今回もまさにそうでした。それで、BLFとしてはクラファンについても、同時進行で進めていくことにしたんです」

こうした打ち合わせの中で決定したのが、「返礼品としてカンボジアでの写真をまとめたフォトブックを作成しよう」ということだった。そしてそこには、「写真だけではなく、紀行文も掲載しよう」となり、取材、執筆の担当者として、私の下に編集者からの電話が入ったのである。

第二章 12月19日、夜──アンコールパールホテルにて

長い一日の終わりに

今回、日本から向かったのは合計11名。 その内訳は、クラウドファンディング用のフォトブックを制作する「主婦の友社組」の編集者、カメラマン、私の3名。そして、「BLF組」は、団体の記録用写真撮影のカメラマンと、何度もカンボジアを訪れているフィランソロピーアドバイザー、宮本聡の2名。さらに、我々を迎えるべく、先にカンボジア入りしていた「国境なき子どもたち組」は、三喜一史、松浦ちはるの2名。スタッフは総勢7名。ここに吉田ファミリーの4名が加わり、全11名のクルーで2泊3日の行程をともに過ごすことになった。

常に冷静沈着な夫、興奮と感動を隠さない夫人

彼女は明らかに、未知なる国を訪れていることに対して興奮していた。それは、常に冷静沈着で、ほとんど感情の揺れを表に出すことのない夫とは対照的だった。

どんなときでも、決して感情がブレない男

「吉田正尚は本当に勝負強かった。どんなときでも常に淡々としていて、決して感情がブレることはなかった。あのメキシコ戦での殊勲打のときも、多少の興奮はあったはずだけど、一塁を回った際に両手を高く掲げただけで、ホームインした後にはいつもの吉田に戻っていた。試合後もそうだよ。威勢のいいコメントを求めたけれど、口では、”しびれました””興奮しました”“最高です”とは言っているけど、その口調は普段と変わらない、実に冷静なものだったから」

「僕の本質は結果ではなく、過程の積み重ね」

これは頂点に立つという意味、じゃないんです。「頂を目指す」という意味。上だけを見て、必死に「頂を目指していく」という意味です。登っていく段階で、いろんな困難に遭遇する。それがまた、良いんです。

その選択肢は僕にはなかったですね。僕の本質は結果の積み重ねの部分ではない。その日のベストを尽くすこと。その継続、進化です。最終的な結果がそうなりました、というのが一番良い。通算打率とかも、記事でチラッと見たら気になっていましたけど、それは参考資料ぐらいの感覚でした。 『週刊ベースボール/23年3月13日号』

「常に、”上には上がいる”という感覚を持っていた」

常にベストを尽くそうとしてきたんですけど、上には上がいるという感覚で納得することがなかったんです。向上心があったから、大学や大学日本代表に入って刺識をもらうことができました。向上心が高まることの繰り返しでプロに入る階段を上ってこれたように思います。大学の4年間で視野が広がりましたね。 『SIugger/18年7月号』

ゆり香夫人の決断

「多少の不安はあったけど、百聞は一見に如かずで、夫が支援している国をこの目で見てみたい気持ちの方が大きかったですし、主人もいるので、“まぁ、何とかなるでしょ”っていう感じです(笑)」

「私としても、ただの家族旅行というよりは、いろんな国に行って、文化も、考え方も、そして生活環境も違う人々を、自分の目で見たいと思っていました。主人も私も、ドキュメンタリー番組が好きなので、いつものような旅行よりも、そうではない文化や暮らしを見られることに興味を持ちました。それがひょっとしたら、後に人生観を変えることになるんじゃないかという思いもありました。こういう機会がないと、なかなか開発途上国に足を踏み入れることもないと思うんです。だから、私もまた迷わず“行ってみたい”と主人に言いました」

「夫は、相手の立場になって考えることをしない」

「私の場合、決して他人事だと思えない性格なんです。だけど、良くも悪くもなんですけど、逆に主人にはそういう部分がないんです。“相手の立場になって考える”とか、そういう部分がないんです。こんなことを言うと、”他人の気持ちがわからない冷たい人間”のように聞こえるかもしれないですけど、そういう部分があるのも事実なんです。でも、私の場合は逆で、“もし、私が被害に遭ったこの家族だったら……”とか、何でも自分に置きかえて考えてしまう癖があるんです」

「若者の家」に向け、5時間のロングドライブ

ゆり香夫人と二人の子どもたちは、この日はホテルで守番をすることになっていた。 これから数時間かけてのロングドライブがあること。途中、移動のために足元の悪い山道を歩かなければならないこと。そして移動中にインタビューがあるためだった。

第三章 大阪──オリックス・バッファローズ時代

徹底したエゴイズムを貫き通す

「“他人に感情移入する部分がない”という趣旨は、“彼は自分の意志にのみ従って生きているタイプ”ということです。他人の目はもちろん、身内の意見でさえも気にならないし、気にしない。“人の立場になって考えられない”という言い方は語弊があるけど、“他人の目が気にならない”と言えばいいのかな?まったく、そういうことを気にしないんです」

「彼の場合は、たとえ失敗しても、その経験をきちんと次に生かすことができればOKなんです。普通の人のように“失敗したら、みんなから何て言われるだろう?”と、人の目を気にすることがないんです。そこにあるのはあくまでも自分。たとえ失敗したとしても、考えているのは“その経験を今後、どう自分の人生に生かすか?”ということだけ。 その次しか、見ていないんですよ。そういう点が彼の特徴であり、強みなのかなって、私は思いますね」

「彼の場合、もはや他人の目というものが自分の中にないので、何も気にならないんです。他人の目、他人の声が一切、気にならない。それが彼の強みだし、知らない人からのネガティブな発言は真に受けない。彼が大切にしているのは、面と向かって直接会った人、自分が興味のある人、尊敬する人の言葉だけです。だから、ポジティブな要素しか入ってこないんですよ。これが、夫の本質なんです」

バファローズナインから見た吉田正尚

「練習では豪快なスイングで特大ホームランを連発しているのに、試合になるとコンパクトにバットを振っていて、明らかにヒットしか狙っていないんです。だから思わず、“何でヒットしか狙わんの? 大きいのを狙えばいいじゃん”って言ったんです……」このときの吉田の答えを、山田は今でもハッキリと記憶している。 「……僕がそう言ったら、“今はまだ実績もないので、肩頼を勝ち取るために確実にヒットを狙っていきます”って彼は答えました。このときの彼の言葉はすごく記憶に残っています。その後すぐに四番になったんですけど、6月ぐらいには普通に大きい当たりを打つようになっていましたね」

先輩に送迎を頼んで、後部座席で熟睡する後輩

改めて、「吉田選手の長所と短所は?」と尋ねると、山田はさらに笑顔になった。 「長所はマイペースだということですね。彼の場合、焦ることがないですから。で、短所か……。難しいですね。強いて言えば焦らないことですかね」

後輩・西川龍馬から見た吉田正尚

先に述べたように、2学年先輩の山田は「右にも左にも打てるバッター」と吉田を評した。一方の西川が抱く吉田のイメージは「ホームランを打つバッター」だという。

「このままではプロには行けない」

当時、西川もまた吉田の率直な思いを耳にしていたという。 「いつも、“プロに行くのかどうか?”という話をしていましたから、正尚さんが“今、プロに行ってもオレは通用しない......と言っていたことは覚えています。割と早い段階で大学に進学することを決めていましたから」 この日対戦した釜田は、プロ野球スカウトも注目する超高校級の逸材だった。その投手から、1年生ながら3本のヒットを放った。西川にとっては忘れられない対戦となったが、吉田にとっても屈辱と挫折を覚えた記憶に残る一戦となった。 当時の西川は、吉田のことを「一人だけレベルが違うバッター」と評価していた。それでも、その彼でさえも高校卒業後、すぐにプロには行けないのだという。

「壁がない人なんです、正尚さんは」

2学年上の山田が「僕のことを先輩だと思っていない」と言っていたことを思い出す。吉田は先輩だけに限らず、後輩についても分け隔てなくつき合うことができる稀有な人なのかもしれない。先輩を先輩だと思わないように、後輩を後輩だとも思わない。つまりは、自分と他者との間に壁を作らない。そんな人間なのかもしれない。

ラオウ・杉本裕太郎の述懐

この問いに対して、杉本は何の迷いもなく即答する。 「まずはスイングの速さ。そして、打球の精度。それにバッティングフォームがすごくきれいでした。身体は小さいんだけど、あまり見たことのない力強いスイングでした。何もかも桁外れの存在でした」

杉本が語る「吉田正尚マイペース伝説」

「それでも、許されるのが正尚のすごいところだと思います。憎めない性格だからなんでしょうね。普段は本当にアホなのに、試合が始まると相手ピッチャーのことをしっかり理解して、いろいろなことを頭に入れてプレーをする。普段はアホなのに、試合のときだけめちゃめちゃ頭がいいんです」

吉田の持つ「強さ」の理由

吉田に近い人たちに話を聞くと、彼はマイペースで、決して他人の目や、外野からの評価に動じることはなく、自分のじること、やるべきことを徹底的に追求していくという姿勢が垣間見えてくる。 また、本人の発言にあるように、彼は「常にベストを尽くすこと」を心がけている。当然、うまくいくこともあれば、そうでないこともある。たとえ思うような結果が出なくても、「この経験を次に繋げればいい」と考えることのできるポジティブな思考がある。

第四章 12月20日、朝──「若者の家」へ

カンボジアの田舎道を進みながら……

「チャリティ活動に興味を持つきっかけとなったのは小学生の頃、それも低学年のことじゃなかったかなぁ……」

「今となっては、正確なタイトルも忘れてしまったんですけど、『世界がもしも100人の村だったら』といったテレビ番組を見たのがきっかけでした……」

『世界がもし100人の村だったら』

「僕自身もまだ10歳ぐらいだったと思うけど、ゴミ山の中に住んでいる少女、満足な食事もなくて餓死しそうな少年たちの姿を見て、本当にショックを受けました。日本に住んでいたらまったく想像もつかない世界があること。自分と同じぐらいの年齢の子どもたち生きるか死ぬかの状況にさらされていること。本当にインパクトが大きかった」

フィリピンのゴミ山で暮らす12歳の少女・マニカ

当時小学生だった吉田は、この番組をどんな思いで見ていたのだろうか? このとき彼は、マニカの弟のアンボとほぼ同年齢だ。吉田少年はマニカの姿に何を感じたのだろうか?放送からすでに20年が経過した。それでも、吉田の胸の内には、あの日見たこの番組が今でもありありと息づいているのだ。

「勉強したい……」とマニカは言った

ゆり香夫人が幼い頃、しばしば父から「世界には勉強したくても、それがかなわない子どもたちがたくさんいるんだよ」と言われていたということはすでに述べた。彼女の父親が口にしていたのは、まさにマニカのような子どもたちのことだった。

「すべてのときが止まる」──野球の華、ホームランの魅力

「せっかく寄付をさせていただくのなら、やっぱり野球に絡めて、それを自分のモチベーションの一つにしたかった。そこで、具体的にどうすればいいかを考えました。やっり、野球の魅力はホームランですよね。どんなに点差が離れていても、ファンの人は大きなホームランを見ると喜ぶじゃないですか。そこで、“ホームラン1本につき”というアイディアが浮かんで、この形での支援が決まりました」

「大谷翔平選手のように、サイズ的にも、能力的にも恵まれたすばらしい体格を持つ選手にすべての力を発揮されたら、やはり身体が小さいことは不利になるかもしれません。でも、ほとんどの選手は持っている力を十分に発揮できるものではないんです。だから、出力をきちんと上げていけば身体のサイズをカバーすることはできます。出力を上げるためにはしっかりとバットを振ること。これが大切なんです」

子どもたちからのメッセージが励みに

レッドソックスのクラブハウス、彼のロッカーには現地の子どもたちから送られた写真が飾ってあるという。試合前のひととき、それを目にしてさらなる闘志を掻き立てる。それは、吉田と子どもたち双方にとって、まさにウインウインの関係にあることの証だ。

さらに、彼がこだわったのが「選手・ファン参加型」であることだ。吉田が言う。 「単に僕だけが支援をするのではなく、ファンの人を巻き込んで、みんなに興味を持ってもらいながら、子どもたちが抱えている課題を考えること。これは僕のアイディアではなく、岡田さんからの提案でしたけど、すごくいい考えだと思いました」

今もなおカンボジアに残る「悲しい記憶」

その歴史は壮絶だ。1970年代、ポル・ポト政権下において干ばつ、飢餓、疫病、そして凄惨な虐殺が繰り広げられて、この間だけで100万人とも、200万人とも言われる大量の犠牲者を生み出した。その多くが教師、医者、宗教関係者などの知識人で、そのために国家としての成長が大きく阻害されることとなった。

第五章 福井──メジャーリーガーの原点

野球に夢中だった小学生時代

母の記憶では小学1年生で、吉田の記憶では小学2年生ではあるが、野球を始めて早々に彼はホームランの魅力を知ったのである。そこには、父の教えも影響していた。 「私は野球経験がないので何もアドバイスはできないですけど、正尚に言っていたのは、“とにかく思い切って振ってこい”ということでした。練習や試合の送迎をしているときも、車の中ではいつも“とにかく思い切り振ってこい”と声がけをしていましたね」

「フルスイング」ではなく、「強いスイング」を

「細かいことかもしれないですけど、《フルスイング》というのは、どんなボールでもブンブン振り回すイメージがあるし、ちょっと軽い感じに聞こえる気がするんです。僕としては力強くボールにバットを入れていく。力強くバットを振る。そんなイメージなんです。だから、《フルスイング》というよりは、《強いスイング》という言い方の方がしっくりくるんです。細かいことかもしれないですけど」

「でも、誤解してほしくないのは、《強いスイング》といっても、振り始めからフォロースルーまで、ずっと力を入れているわけじゃないんです。ボールをとらえるインパクトの瞬間に最大限の力が発揮できるスイング。それが僕の言う《強いスイング》です」

小学校の卒業文集で「大リーガーになりたい」と書いたということは、よく知られるエピソードである。この頃、吉田は祖母に率直な思いを打ち明けていたという。母の証言。 「正尚がまだ小学生だった頃、おばあちゃんには“将来はメジャーリーグに行きたい。あんなところでプレーしたい”と言っていたようです。そうしたら、おばあちゃんは“行きの切符のお金は年金から出してあげるけど、帰りは自分のお金で帰ってくるように。だから、本気で頑張るのよ”って言ったそうです」

人生を変えた鯖江ボーイズ入団

佐々木監督も、この頃の吉田の態度をハッキリと覚えている。 「うちの李が元ジャイアンツだったので、子どもたちは自然にプロ意識とか、プロはどんな世界なのかとか、いろいろなことを学んだと思います。プロ野球選手が中学生の頃にどんな練習をしていたのか? プロになるためにはどんな心構えが必要なのか? 吉田はそういう話に対して、熱心に耳を傾けていました。彼の場合、いったんバッティング練習を始めたら、“いいかげんに、もうやめろ”というまでやめなかったですよ。そのぐらい野球が好きだったのか、プロへの憧れが強かったのか、周りが見えなくなるほど、とにかく練習に打ち込んでいました。そういう点でも、彼は別格でした」

「ホームランを狙え」という特別指導

そして佐々木監督は、吉田の「変わらない打撃フォーム」について言及する。 「その後、多少の修正をしているのかもしれないけど、僕らからすれば高校のときも、大学のときも、中学生の頃と何ら変わりのない構えなんです。極端に言えば、アメリカでも変わっていません。うちのチームから、これまで9人のプロ選手を輩出しましたけど、みんなプロに行ったらバッティングフォームが変わるんです。でも、吉田だけは中学生のときと一緒なんです。すでにあの時点で、自分なりに考え抜いたバッティングフォームを身につけていた。あの時点ですでに自分の芯を持っていたんでしょうね。芯というのは身体の芯ではなく、心の芯の強さです。それは、他の子どもたちにはないものでした。あの頃から、コーチが何を言おうが、監督が何を言おうが、自分で”これだ”というものがあれば、最後までやり抜く根性がありましたからね」中学生時代の吉田がすでに非凡であったことを物語る証言だった。

「当時、李とも相談したんですけど、“こいつだけはプロに行く素質がある”ということで意見が一致しました。そこで考えたのが、”吉田にだけは何も言わずに大きいのを打たせよう、ホームランを打たせよう”ということでした。プロの世界を経験している李が、“やっぱり遠くに飛ばせないとプロ入りは厳しい”と言っていたので、吉田にはもうずっと、“飛ばせ、飛ばせ”という指導をしました」

子どもらしくない子ども

「全然、手のかからない子どもでしたよ。逆に、手をかけさせてほしかったですよ。練習のときには常にクールでふざけない。いつも真剣でした。言っちゃ悪いけど、子どもらしさはなかったですね。今の吉田を見ていたらわかると思うけど、クールで、感情表現もほとんどないじゃないですか。あれがもう、そのまんまの小学生、中学生でしたよね。本当に子どもらしくない子どもでしたよ(笑)」

「普通の子どもだったら、監督やコーチが“こうやって打った方がいいんじゃない?”と指導をしますよね。でも、吉田の場合は違う。“僕はこういうバッティングをしたいので、こうなっているか見ていてください”って言うんです。アイツは僕のことを《監督》と呼ばずに、《昭(あき)さん》って呼ぶんですけど、“昭さん、ちょっと見てもらってもいいですか?”って言うから、“何を見るねん?”って聞くと、“こういうバットの出し方をしたいので、実際にそうなっているか見てほしいんです”と言う。あるいは、“バットが内側から出ているか?”とか、“ヒッチをしていないか?”とか、“ひじの位置がここにあるかどうか?”とか、常に具体的なポイントを口にして、僕にチェックするように頼むんです」

「華のある男」が選んだのは敦賀気比高校

父が述懐する。 「私としては福井商業に行ってほしかった。学校からも声がかかっていたんです。だから、“ぜひ福商に”と思っていたんですけれども、本人は“どうしても気比に行きたい”と言っていましたね。小学校までは県内のチームと対戦ばかりしていました。でも、鯖江ボーイズでは県外のチームとの試合が増えたし、全国大会にも出場しました。そうすると、そこには目立つ選手がいたんでしょうね。“県内のチームではなく、全国からいい選手が集まる高校でプレーしたい”と考えたのではないでしょうか」

「バットを強く振れる、打球が飛ぶというのもすごいんですけど、僕が驚いたのはボールを潰しにいくような力強いスイングでした。ボールを飛ばすことが得意な選手は他にもいるんでしょうけど、ボールを潰しにいく選手は見たことがない。中学生でああいう形で振れる子なんて見たことがない。逆に、“あんなスイングをして、身体、故障せえへんのかな?”って、心配になるぐらいでした。まだ中学生の身体であれだけのスイングができるということは、高校生になったらどんなスイングをするんやろ?相当すごい選手になるんじゃないか。そんなことを感じていました」

高校でも入学直後から突出した存在に

吉田は何がすごいのか? 甲子園常連校の名将の目から見た、彼のストロングポイントは何か? 質問を投げかけると、「インパクトで負けないこと」と、東監督は言った。

しかし、高校2年夏以降、吉田は極度の不振に陥ってしまった。 「彼があまりにも打つものだから、相手高校から徹底的にマークされるようになりました。まともに勝負してもらえず、自分のバッティングをさせてもらえませんでした。やはり、“打ちたい”という気持ちが先走ってしまい、結果的に難しいボールに手を出す機会が増え、調子を崩していきました。その結果、自分の打撃を見失い、長期にわたるスランプに陥ってしまいました」

高校2年秋、初めての挫折

「あのとき、一度はプロをあきらめましたね。泣いてはいないと思います。むしろ、絶望感というか、……いや、苛立ちですね。自分への苛立ち。ショックと絶望、そして苛立ち。そんな感情で、プロを意識するどころじゃなかった。後に釜田がドラフト2位でプロに入って、1年目から活躍するのを見て、“やっぱりあのレベルのピッチャーを打てるようにならなければプロには行けないんだ”と確に変わりました」

「このままではプロでやっていくことはできない」

「……寮生活をして、ずっと野球に打ち込んでいました。けれども結果が出なかった。そこでようやくつかの間の自由を手に入れた。それで現実から目を逸らそうとしていたのかもしれないですね。大学進学が決まっていたということもあるけど、1カ月経ってから久しぶりに身体を動かしていると、“野球は楽しいな”という感覚がよみがってきた。今から思えば、あの期間があったから、一度リセットすることができたし、その後、再び野球に対する思いが強くなってきたのかもしれないですね」

生涯の親友との出会い

思わず、「吉田さんのそんな姿はまったく想像できない」と告げると、水野谷さんは大きく笑った。 「ですよね。アイツ、人前ではいいカッコをするんです。完全に作っていますよ、真面目キャラを(笑)。でも、今では正尚もスター選手としての立場があるので、人前ではクールにふるまうのも当然のこと。だからこそ、僕たちの前では中学時代に戻ってバカなことができるんじゃないのかな?」

第六章 12月20日、昼──「若者の家」にて

「若者の家」での心温まるセレモニー

控室から彼が登場した瞬間、観客たちが息を呑んだのがわかった。歓声は上がらなかった。そこに集った人々は、初めて目にするメジャーリーガーの姿を見て、誰もが緊張しているように見えた。詰めかけた人々は息を呑んだまま、彼の姿を凝視している。 吉田を見つめている子どもたちの表情に目をやる。描い表現であることを重々、承知の上であえて述べるとすれば、それはまさに「キラキラ」としか形容できない表情で、子どもたちは彼が進むのに合わせて、その視線を動かしている。

ポル・ポト派による3年8カ月の空白期間を経て……

ステージ上の吉田は、穏やかな表情でカンボジアの子どもたちに礼を述べ、手を振っている。その口元からは自然な笑顔が消えることはなかった。 しばしの休憩の後に、子どもたちとの触れ合いが始まる予定になっていた。控室に戻った吉田の表情には笑顔が浮かんでいる。セレモニー前と比べて、その停まいは柔らかい。 ついに実現した子どもたちとの対面。 彼もまた、確かな手応えを感じていた。

「若者の家」の卒業生たちとの交流

全員に共通していたのが、「大きな人でビックリした」というコメントだった。吉田は公称173センチである。カンボジアには、彼よりも背の高い人はたくさんいる。前述したように、本人は「メジャーリーガー」をもじって、「リトルリーガー」と称している。それでも、その胸板、腕や太ももの太さは、人並外れた威容を誇っている。スリムな体形の人が多いカンボジアの人々にとって、吉田の肉体は驚嘆すべきものだった。

確実に芽生えていた幸福の循環、善意の循環

このときようやく、吉田のホームランの本当の意味、価値を心から理解できた気がした。 地元のボストン・レッドソックスファンや野球ファンを歓喜させる吉田正尚の豪快な一発によって、野球とは無縁の「遠い国の誰か」の支えとなっていることは、頭で理解していた。しかし、それはあくまでも、不特定多数の「どこかの誰か」でしかなかった。 けれども、今は違う。 明確に「カンボジアのサムナンくん」であり、「ブティくん」であり、「リンダさん」だと理解した。このとき、ようやく吉田の思いに気がついた。彼が求めていたのは、つまりはこういうことだったのだ。

「若者の家」で取り組んでいること

最も人気があるのがコンピューターの授業だ。ここではマウスやキーボードの操作から 始まり、ワード、エクセル、パワーポイントなど、実社会で役立つ技術を教わる。 いずれも料金はかからず、無料である。教科書も無料配布されるという。その運営費の一部こそ、吉田のホームランが生み出した支援金から捻出されているのである。 「何もなくてシンプルだけど、清潔な部屋ですね」 吉田の隣を歩いていると、彼の感想が聞こえてくる。

子どもたちとの垣根が取っ払われた瞬間

しかし、吉田は子どもたちからの誘いに応じて「よし!」とひと声言うと、そのままコートに入った。子どもたちから歓声が上がった。そして、前衛では、相手からのスパイクをブロックしたり、後衛では仲間からのトスを受けてバックアタックを決めたり、思い切りプレーをしたのである。時間にして10分程度、子どもたちと汗を流し、白い歯を見せて笑い合ったのである。

貧困家庭で見たカンボジアの現実

吉田は終始、無言のままだった。真剣な表情で通訳の話を聞き、何度も、何度も、静かにうなずくだけだった。彼の心情はよく理解できた。過酷な生活の一端を見て、「言葉にできない」というのが、このときの正直な思いだったからである。

「カンボジアに来てよかった、本当によかった」と吉田は言った

「今回は《若者の家》だけじゃなく、実際の生活の様子も見せてもらったけど、こんなことを言ってはいけないかもしれないけど、言葉を失ってしまいました。何て言えばいいのか、どんな風に話しかければいいのか、正直、僕にはわからなかった」私も同感だった。そして、彼は続けた。 「これまであまり意識したことはなかったけど、僕自身が思っているよりも、野球選手というのは影響力が大きいのかもしれないですね……」

移動10時間、滞在3時間のささやかな体験ではあったけれど、実際の時間以上に多くのことを見て、さまざまなことを考える貴重な時間となった。自分の人生において、忘れ得ぬ一日となるであろうことを、この時点ですでに私は確信していた。 おそらく、吉田もまた同様の思いを抱いていたことだろう。

第七章 ボストン──新天地で訪れた「変化」

ついに実現した夢の大舞台

「子どもの頃から、なぜか日本のプロ野球よりもメジャーリーグが好きでしたね。常にハッスルしている姿にも魅了されたし、フルスイング、そして肩じられない飛距離にも夢中になりました。大学時代には時間もできたので、携帯でたくさんの映像も見たし、いろいろな情報も集めました。あの頃、好きだったのはブライス・ハーパーでした」

ナショナルズ時代のハーパーは背番号《34》を背負っていた。オリックス・バファローズ入団時に、吉田がこの番号を選んだのは当然のことだった。 「球団からは、いくつかの空き番号を提示してもらったけど、その中に《34》もありました。ハーパーもそうだし、(デビッド・)オルティスもこの番号だし、日本人の左打者でこの番号をつけている選手は思い浮かばなかった。だから、“面白いかもな”と思ったし、《34》にして正解だと思っています」

「マッサージセラピスト」という仕事

「日本ならば、《トレーナー》とひと括りにされる役職です。レッドソックスに限らずアメリカでは、《PT》と呼ばれる《理学療法士》、そして《アスレチックトレーナー》、そして僕が務める《マッサージセラピスト》でチームを組みます。マッサージセラピストの仕事は、選手たちを治療することがメインです。治療というのは100パーセント手技で、手を使った治療、いわゆるマッサージということになります。試合中のベンチやダグアウトに行くことはなく、試合前後に選手たちの治療をする役割です」

「聞く能力」こそが、アメリカに適応する最大の武器

「彼の姿を見ていて思うのは、吉田くんには聞く能力があるということです。聞く耳を持っていると言えばいいのかな? 監督やコーチはもちろん、僕らスタッフにも貪欲に意見を求めてくる。彼のすごいところは、日本であれだけの実績を誇っているのに、その内心で“日本は日本、メジャーはメジャー”だと理解していることです。だから、新しいことを貪欲に取り込もうとしているし、知らないことを知ろうとしています。これまで、FAで移籍してきた選手をたくさん見てきましたけど、たいていの選手は、なかなか自分のそれまでのやり方を変えようとはしないもの。だけど、吉田くんにはそんな点がまったくない。何かアドバイスをもらったら、”なるほど、1回やってみます”と必ずトライする。そういう態度だから、周りも積極的に協力してくれる。好循環だと思いますね」

まだ上原がレッドソックスに在籍していた14年、内窪氏は自著『「チャンスをつかむ人」のシンプルな習慣:世界の舞台で活躍するプロトレーナーが教える行動原理』(ウィズワークス)を出版している。

アメリカ生活を支える通訳の存在

「メジャーリーガーが大切にしていることがあります。それが、年齢が上だとか、下だとかいうことでもなく、年俸が多いとか、少ないとかいうことでもなく、“メジャーで過ごした期間”です。彼らはその点にすごくこだわります。それでロッカーの位置が変わってきたり、要求が通ったり、通らなかったりしてきます。そういうことは山口くんには伝えたりしましたけど、これまでも特に大きな問題もなく過ごせていると思いますね」 やまぐちゆうたろう 内窪氏が語った「山口くん」は、吉田の通訳を務める山口雄太郎氏である。

常に身近で接する通訳が語る「アメリカの吉田」

「一流選手はみんな準備を怠りません。でも、吉田くんの場合、それはさらに徹底しています。アスリートの身体に触れていると、言葉ではない何かが伝わってくるんです。それは、激しくエネルギーを放出した後の余韻、余熱のようなものだったり、身体全体のズレやゆがみであったり、疲労が溜まった骨や筋肉の悲鳴であったり、さまざまです。私たちは、そうした声にならない声を聞くのが仕事です。それは、ときには本人ですら気づいていない声なんです。でも、吉田くんの場合は、自分で身体からの声を理解しているんです。それはきちんと自分の身体と向き合っているから、日頃からきちんと準備を怠っていないから。そんなアスリートは、めったにいないです」

友人、恩師から見た「吉田の変化」

佐々木監督はこんな言葉をつけ加える。 「昔と比べて変わったのか、それとも元々そういう気持ちがあったけど、それを見せていなかったのかはわからないけど、すごく驚きましたね。アメリカに行ってからは、なかなか会う機会はないけど、海外でいろいろな経験を積むことで、さらに大人になっているんじゃないのかな?」

ゆり香夫人から見た夫の変化

「自分では何も変えていないし、変わったとも思わないけど、“実際にやってみること、触れ合うこと”の大切さは、以前よりも強く感じるようになったかもしれないですね。アメリカに行ったことも、カンボジアに行ったこともそうだけど、自分の目で見て、自分の手で触れてみて、初めて感じることがある。初めて理解できることがある。肌で感じることって、やっぱり大きいですよ。今まで気づかなかったことが理解できるし、同じものを見ても人それぞれ感じ方、とらえ方も違うからこそ、自分で見たもの、感じたことは大切にしたい。そんな思いは強くなったかもしれないですね」

第八章 12月21日、夜明け前──アンコール・ワットにて

早朝のアンコール・ワットへ

クメール語で「寺院のある都」を意味する東南アジア最大の石像伽藍は、南北約1300メートル、東西約1500メートルにも及ぶ。この広大な土地に1万7000人から2万人の労力を使い、30年から40年もの長い年月をかけて完成させたもので、最高部が65メートルもある大きな塔・中央祠堂は世界的な観光スポットとなっている。

「若者の家」OB・ロウさんとの出会い

彼の名前はロウという。柔らかな笑顔で私たちにあいさつをしている。「国境なき子どもたち(KnK)」のスタッフの説明によると、ロウさんは「若者の家」の卒業生だという。彼もまた「15歳の壁」を乗り越え、英語をマスターし、卒業後には奨学金を得て大学に進学。その後、国家試験に合格して公式ガイドになり、観光客相手にガイドを務めるようになったのである。

人生は瞬時の判断、瞬時の決断の連続

「確かに、一喜一憂はしないですね。落ち込むこともない代わりに、テンション上げて燃え盛るような感じもない。野球に関して言えば、常に平常心でいること。毎打席、同じ気持ちでいることを心がけています。心の中には熱い思いもありますよ。でも、それを表に出すことはしない。自分の考えを相手に見せたくないですから。自分の考えを相手に悟られても、勝負においていいことはないし、その時点ですでに負けていると思いますから」

「育ちのいい宇宙人」とともに、これからも

「言葉は悪いけど、アイツは宇宙人ですよ。自分中心に世の中が回っていると思って生きている。他人がどう思うとか、まったく気にすることがない。自分がいいと思うこと、肩じたことだけを脇目も振らずに一直線に進むことができる。なかなか普通の人にはそれができない。だから彼は宇宙人なんです」 中学時代からの親友、水野谷光紀さんの言葉である。彼によれば、吉田は「単なる宇宙人ではない」という。 「……でも、アイツはすごく育ちがいいんです。真面目なお父さんとお母さんの下に生まれて、小さい頃にはおばあちゃんに愛されて育ったから、すごく真面目で、人としてきちんとしているんです。彼はいつも福井に帰ると、まずお墓参りをします。先祖をすごく敬っているし、中学時代の仲間を大切にしてくれる。そういう意味では、《育ちのいい宇宙人》というのが、正尚のことを言い表しているひと言なのかもしれない」

「オレは《吉田正尚》の人生を生きたい」

「彼が本当に一生懸命、野球に打ち込んでいること、頑張っていることは、近くで見ている私がいちばん理解しています。でも、こんなことを言ったらいけないのかもしれないけど、ついつい私は“彼ならもっとできるはずだ”と考えてしまうんです。私からすれば、“もっと野球に打ち込むことができれば、もっともっと成績が上がるんじゃないか?”という思いがあります。もう十分頑張っていることは理解しているんです。でも、オフシーズンは予定がいっぱいでほとんど家にいないので、あまりにも多すぎる会食の回数を少しだけ減らしたり、お酒を飲む機会を減らしたり、もっと栄養管理に気を遣えば、もっともつと成績が向上するんじゃないか。そんな思いがあるんです」

「私の言葉に対して、主人もいろいろ考えたようです。あるとき、彼は“引退するときには、すべてをやり切ったと言いたい”って言いました。やっぱり、自分の中にも“まだまだできるはずだ”という思いがあったのだと思います。日本からアメリカに渡って、周りの選手のポテンシャルの高さを実感したからだと思います。自分の能力だけでは追いつくことはできないほどのすごい人たちが周りにはたくさんいる。それまで以上の努力が必要になるし、新たな取り組みも必要になるかもしれない。本気でやらないと、いつトレードに出されるかわからない。いつクビになるかわからない。そんな厳しい世界にいることの自覚が強くなったんだと思います」

楽しいことばかりで、人生は楽しいのか?

「主人がよく口にするのは、“人生は8割ぐらい苦しい思いをして、2割の喜びや楽しさを感じるんじゃないかな?”という言葉です。今までも、これからも、そんな考えを持って生きていくんだと思います」

新しい一日の始まりに

「年齢も環境も大きく変わったけど、自分自身、“もっと上手になりたい”という向上心は何も変わらない。それがなくなったらプレイヤーとしては終わりですから。プロの世界は結果がすべてだから、結果を出さなければ何も言う資格がない。だからしっかりと準備をする。後悔しないように努力をする。その繰り返しじゃないですかね。そうやって辛いことを乗り越えながら頑張っていると、たまにご優美がもらえる。そのご褒美のために、これからも引き続き、自分のやるべきことをしっかりとやっていく。それが僕にできること。僕がやるべきことなんだと思いますね」

「これまでは写真や動画で見るだけだったけど、今はそうじゃない。だって、彼らのことがより身近になりましたから。直接、自分の目で見たり、触れたりすることは大事ですよね。まさか一緒にバレーボールをするとは思っていなかったから(笑)。本当に来てよかった。本当によかったとつくづく思いますね」

エピローグ 旅の終わりに

「カンボジアの自慢はカンボジア人です」

そして、さらに恥ずかしそうな表情で、ソピィアさんはこんな言葉を口にした。 「そしてもう一つ。カンボジアの自慢はカンボジア人です。とてもフレンドリーで、外国人とも仲良く交流できるところです」

そして、日本へ

吉田が、私たちに礼を述べた。傍らではゆり香夫人が深々と頭を下げている。事情のわからない娘たちはまだまだ眠そうだ。 礼を言うのは、こちらの方だった。吉田の強い思いがなければ、私たちはカンボジアに行くことはなかった。彼の熱心な支援活動があればこそ、私たちはこんな貴重な経験をすることができたのだ。

おわりに あれから2年、そして今でも……

現在はショート動画が全盛で、複雑なことは求められず、一瞬でパッと理解できることが最優先されているように思う。けれども、あえてその流れに逆行するように300ページ近くもある「書籍」という形で、今回は僕の思いを表現することを選択した。そこには、書籍でしか伝わらない「深み」や「味わい」が必ずあるはずだと僕は肩じている。

決断-カンボジア72時間- | NDLサーチ | 国立国会図書館