中公新書の評伝は粒ぞろいだけど,その中でもこれは出色だと思う。ミッテランの多面性,その背景にあるフランス社会のごちゃごちゃ,これだけも面白い評伝は確約されたようなものだけれど,そこのこの著者の多方面から持ってくる引用,政治に対する深い洞察が相まって,なんとも味わい深いものになっている。
著者の引用が的確なんだけど,ここに散りばめられているミッテラン自身の言葉がどれも味わい深くてね……。
そういえば,ヴィノック『ミッテラン:カトリック少年から社会主義者の大統領へ』吉田書店のときも思ったんだけど,本書も話の半分以上はミッテランが大統領になる前のものなんすよね。感覚的には,大統領になってからが1/3ぐらい。それに肩透かしをくらった気分になるんだけど,ただまぁそれが──第二次世界大戦中の経験やらドゴールとの対決やらが──ミッテランの本質なんでしょうね。
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- 第1章 フランスの地方に生まれて──「王か法王になる」
- 第2章 世界大戦との出会い──「フランスを中から目覚めさせる」
- 第3章 政界のホープ──「野心は統治者になることに尽きる」
- 第4章 大統領への道──「革命とは決別のことである」
- 第5章 社会主義から欧州統合へ──「私はヨーロッパ建設と社会正義の間で迷っている」
- 第6章 ドイツ統一とポスト冷戦時代の始まり──「自らの手でヨーロッパを作り出す」
- 終章 フランスの歴史と政治──ミッテランが遺したもの
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まえがき──ミッテランを通じてみえるもの
「政治屋(ポリティシャン)は次の選挙のことを考え、政治家(ステーツマン)は次世代のことを考える」──アメリカの神学者ジェームズ・クラークが、1882年に残したこの言葉はよく知られている。彼は続けて、こうも書いている。「政治屋は自党の成功を願い、政治家は国の成功を願う。政治家は統治を試みるが、政治屋は彷徨い続けて一生を終える」。
1981年から1995年までフランス大統領を2期にわたって務めたフランソワ・ミッテラン──現在に至るまで最も長くフランス大統領を務めた人物──は、こうした政治の持つ二面性をまさに体現した人物だった。青年期には極右の政治運動に夢中になり、第二次世界大戦中は対独協力政権であるヴィシー政権のもとで働くものの、直後にレジスタンス運動に身を投じる。戦後は、最年少の大臣として輝かしい未来を約束されつつ、政界再編と新しい憲政でもって前途が絶たれると、左派政党である社会党のリーダーへと転じる。長い時間をかけて大統領に当選した彼は、それまでの公約を打ち捨てて、新自由主義的政策へと舵を切ることになった。そして政治的な勝利を確実なものにするため、権謀術数を駆使した。ミッテランが、毀誉褒貶の激しい「政治屋」として世間から厳しく非難された所以である。
「権謀術数家」「マキャヴェリスト」「スフィンクス」「フィレンツェ人」「神」「おじいちゃん」「カサノバ」ー軽蔑や親しみの念から、ミッテランは様々な仇名で呼ばれた。しかしその名は、フランス国民の中でも、欧州はもちろん世界でも、時代を代表する偉大な「政治家」の1人として記憶されている。それは、彼が戦後フランスで左派の大統領として初めて政権交代を成し遂げ、停滞していた欧州統合を牽引して今日の欧州連合(EU)に至る礎を作り、ドイツ統一と冷戦終結を平和裏に導くことに成功したからである。異なる国益を追求する同時代の首脳たちも、ミッテランの見識と先見性を異口同音に認めていた。
ミッテランについて書くことのもうひとつの理由は、その人生を追うことがフランスと世界の歴史を学ぶことにつながるからだ。ミッテランの代表的評伝のひとつであるジャン・ラクチュール著『フランソワ・ミッテラン』の副題は「フランス人の歴史」となっている。1916年という第一次世界大戦の只中の年に生まれ、病魔と闘いつつ1996年にこの世を去ったミッテランは、歴史家ホブズボームのいう「短い20世紀」、すなわち第一次世界大戦に始まり、冷戦終結に終わる20世紀をほぼ生きた人物でもあった。
第1章 フランスの地方に生まれて──「王か法王になる」
コニャックという地
フルネームで記せば、フランソワ゠モーリス゠アドリアン゠マリ・ミッテランという人物がこの世に生を授かったのは、第一次世界大戦中の1916年10月26日、父ジョゼフと母イヴォシヌの5番目の次男としてのことだった。戦争の影響もあって、この時代のフランスの家庭の子どもの数は2人を超える程度だったから、総勢8人という兄弟はかなりの人数だった。
幸せな幼少時代
「私を私たらしめている嗅覚、味覚、行動はこの土地で作られた」と述べて、温暖な気候のもとで時間がゆっくり流れるこの土地に包まれて、少年ミッテランは幸せな時間を送っていた。子ども時代のミッテランは、毎夏のバカンスにジャルナックから70キロほど離れた、電気も水道もない母方の祖父の牧場で兄弟とともに暮らし、そこで「自然を感じ、自然を知り、恍惚を覚る」ことになった。
ミッテランは父親について、尊敬はすれども「冷たく、もっといって冷淡で、自分のことをしゃべらなかった」と回想している。ミッテランの少年時代は、母方の家族、特に彼が尊敬し、可愛がられた祖母ユジェニーの強い影響のもとにあった。カトリック家庭の常であるように、大家族で囲む食卓では、他人の悪口をいうこと、金銭の話をすることが禁じられた。「敬意、寛容、忠誠」こそがミッテランの人間関係の核だったと、友人は証言する。
文学少年
ミッテラン家の子どもたちは、カトリック系の幼稚園に通い、その後は公立小学校へと進んだ。兄弟たちはそれぞれ音楽や楽器を習っていたものの、ミッテランは病気がちだったこともあり、騒々しい兄弟たちから離れて、読書に傾倒していった。読書は、死に至るまで、ミッテランが習慣としたものだった。
若きミッテランはどのような本に惹かれていたのか。大学進学直前には「(哲学的なものよりも)ヴィニーやパスカル、ブリュヌチェールなどの方が好きだ」と手紙に書き綴っている。何れも、ロマン主義的な作風が特徴の作家、思想家である。アンドレ・ジッド、トルストイ、ドストエフスキーなどの文豪のほか、モーリアック、クローデル、ジョルジュ・ベルナノスなどを好んだとの証言もある。彼らも地方出身の、保守的な作風で知られる作家たちである。
そんなミッテランは、作家になる夢を持ち続けていた。1977年になって新聞インタビューに次のように述べている。「もし作家になっていたら、想像的な作家にはなってなかっただろう。観察して書くこと、そのように書かれたものが好きだからだ。言語、哲学、文法──本当の文学とは言葉と物についての正確さのことで、自分の印象を言葉にするよりも、何を見て、何を感じたのかが書かれているものの方がいい」。
神の存在
とりわけ心深い母を持ち、毎日曜の教会通いと、神学校に通ったミッテランは、果たして神の存在をじていたのだろうか。宗教戦争の影が色濃く残る土地に生まれ、カトリックの幼稚園に向かう際に「カロタン!(仏語で教会に通う者への蔑称)」と嘲罵されたミッテランが、自身がカトリック信者であるという自覚を幼い頃から持っていたと推測するのは自然である。 ただし、後にも参照する、ノーベル平和賞作家エリー・ヴィーゼルとの対談では、ミッテランは宗儀を実践せず、いかなる教義とも距離を取る「不可知論者」、つまり神の存在の有無は知り得ない立場を取る、としている。
パリへの旅立ち
ミッテランは15歳の時、亡くした息子の代わりに彼を溺愛していた母方の祖母ユジェニーに将来の夢を尋ねられて、「王か法王になる」と答えたという。ミッテランの少年時代が語られる際に、よく引き合いに出される逸話である。司祭の道を歩むことを期待していたユジェニーに応えようと、若干の自意識と自負が交じり合った言葉だったのかもしれない。中年を越えたミッテランが想起していうように「15歳の時は、自分と他人がもっとも調和していた時期」であった。
第2章 世界大戦との出会い──「フランスを中から目覚めさせる」
ミッテラン自身が政治に関心を寄せていなくとも、時代はそれを許さなかった。隣国ドイツで1933年3月にナチス政権が誕生し、34年10月にはドイツ封じ込めのため接近中だったフランスの外務相バルトゥとユーゴスラヴィア王アレクサンダル1世が、南部の商港マルセイユで民族主義者に暗殺されるという、きな臭い事件も起きていた。第一次世界大戦後の域内秩序の再編成と国境の引き直しを経験して、かの地ではナショナリズムの嵐が吹き荒れていた。当初は大恐慌の余波が比較的小さかったフランスでも、その影響が色濃いものになっていくにつれ、政変が続くことになる。
1930年代は、国際関係の緊張、経済危機、議会制民主主義の機能不全、極右・極左による示威行為という四重苦でもってフランスは立ち往生していた。政治史家フランソワ・フェレは、30年代のフランス人は「意思を失った国民」と化していた、と表現している。
極右組織での活動
ミッテランがパリに放り込まれたのは、こうした「政治の季節」と「街頭の政治」に彩られた1934年10月のことだった。感受性豊かな青年が、スポーツと文学だけに興じるわけにはいかなくなったのは当然のことだった。地方の学生が集い、作家モーリアックもかつて暮らしたマリスト修道会が運営する学生寮──ミッテランは間もなく自治会長になる──での自由闊達な雰囲気は、彼が後生大事にする新たな友人関係と政治への目覚めを用意する場ともなった。 彼の最初の政治活動の場として選ばれたのは、上述の「クロワ・ド・フー」だった。当時、最も活動的な極右組織として知られたこの団体は、文筆家で外交官だったモーリス・アノによって結成された退役軍人組織だった。それが、31年からラ・ロック大佐を会長に迎えて政治活動へと舵を切り、最盛期で70万人もの会員を有する極右組織となっていた。
初恋
ミッテランは、まだ自分の人生のすべてを政治活動に捧げたわけではなかった。当時几帳面につけていた小遣い帳をみると、演劇や映画館に足を運び、ダンス・パーティやテニス、卓球に興じ、さらに救貧活動に参加するなど、忙しい青年時代を送っていたことがわかる。
もちろん年相応に、女性にも関心を寄せた。彼が最初に心惹かれたのは37年末に知己を得た、4歳年上の従妹のマリ゠クレールだった。彼女は「ちょっとだけぎごちなく、押しつけがましい青年だった」と、ミッテランと出会った時の印象を証言している。文学愛好家同士だったこともあって、ミッテランは矢継ぎ早に彼女に手紙をしたためた。「僕にとって手紙を書くことは、考えを含めて自分を説明するための手段なのです。だから、それを受け取る人にとって意味あるものであるよう情熱を傾けます。貴女はその対象でもあります」。青年特有の、自意識に満ちた文章である。
ミッテランは38年1月、高等師範学校の伝統あるダンス・パーティで、身を焦がすほどの恋に落ちたからだった。女性の名はマリ゠ルイーズ・テラス。50年代から70年代にかけてカトリーヌ・ランジェという名で、フランスで初の女性アナウンサーとしてお茶の間に知られることになる人物だ。出会いはミッテランの文字通りの一目惚れで、「彼女がこっちを向いてから、足が床に張り付いたままのようだった。ダンスに誘った。彼女に夢中だった」と後に戦友に語っている。
大学院にいたミッテランは兵役義務の延長もできたが、38年9月に結婚を正式に求めた後、彼女の父親が課した条件を満たすため、自ら進んで志願した。もっとも、彼女の近くにいようと、所属先として選んだのはパリに兵舎のある第23植民地歩兵団だった。そして、この選択は2人の仲にとって致命的なものとなる。
出兵
36年の春を迎え、「出兵しないといけないとしたら、どの本を持参するか」という寄宿舎の機関誌でのアンケートで、ミッテランは「パスカルの『随想録』とラブレーの『テレームの僧院』」と回答した。 この2冊を携えてかどうかはわからないものの、ポーランド侵攻を受けて39年9月3日午前5時にドイツへの宣戦布告がなされて総動員令が出されると、ミッテランはベルギー国境近くのマジノ線最西にあるストネに配属された。
彼は「1938年という時代にあって、我々にとって兵士であることの意味は、ごく平凡で実直な市民が最短の時間でもって、汚れや怠情、酒、売春宿、睡眠不足に慣れてしまうことを意味した」と戦後に回顧している。このように、誇り高い若きミッテランは、兵士生活に馴染むのに苦労したようだ。
ドイツの電撃戦で、首都を含むフランス北部はナチス支配下に入る。40年6月22日に講和条約を結んだフランスは、休戦協定に基づき、占領地区、ドイツ軍政管轄地区、留保地域(緩衝地帯)、イタリア占領地区、そして42年11月まで保持された自由地区の5つに分割された。サチス非支配地域はペタン将軍を指導者とする「フランス国」、いわゆるヴィシー政府の統治下に入る。フランスはすでに亡国の状況にあった。負傷でもって勲章を授けられたミッテランも、1ヵ月の治療を経て、その後ドイツへと移送される捕虜の1人となった。
三度の脱走
「軍服は人生を愛する者を傷つける」と手紙に書いた捕虜ミッテランは、自由を求めて早くも脱走を企てることになった。この時、ミッテランが最も心を痛めていたのは、愛するマリ゠ルイーズからの手紙が途絶えがちだったことだった。彼女が彼への恋心を失いつつあるらしいと友人から知らされるのも、この時のことだった。
28ヵ月にわたる捕虜時代は、こうして過去のものとなった。後年、大統領になってからもミッテランは室温を高めに設定するのを好んだというが、自身によれば、これも脱走時に経験した極寒ゆえのことだという。
ところで、1987年に大統領ミッテランは、フランス最高位の勲章であるレジオン・ドヌールをマリ゠ルイーズに授けている。先に紹介したように、彼女はカトリーヌ・ランジェという芸名でもって、戦後テレビ界の華となり、その功績が称えられてのことだった。しかし、そもそも彼女を司会者としてテレビ局に推薦したのは、この時代に情報通言相だったミッテランでもあった。大統領は「彼女は教養のある控えめさから信頼できる女性という印象をフランス人に与えた。彼女はフランス人の心の奥底に触れたゆえに、国民が彼女を忘れることはないだろう」と祝辞を述べた。しかし、それは若き日の恋人、ミッテランの心象そのものではなかったか。彼は、長いこと婚約日の3月3日(あるいは彼女の誕生日だったとの証言もある)に赤いバラを毎年贈り、密会を重ねたこともあった。エリゼ宮(大統領府)で再会した2人は、この時どのような思い出話を交わしたのだろうか。その記録は残っていない。
ヴィシー政府の一員として
フランス自由地区を統治したのは、1940年7月10日に上下両院の大多数の議員──左派議員を含む──から全権を委任されたフィリップ・ペタン元帥だった。第一次世界大戦の英雄として名を馳せた、この「国民革命」を目指した、84歳の元軍人はフランス革命以来の「自由・平等・博愛」に代わって「勤労・家族・祖国」をスローガンに据えた。
ヴィシー政府は、反自由主義・反共和主義を土台としてはいたものの、実際にはその内部に多様なグループが結集していたことから、ポルトガルのサラザール体制やスペインのフランコ体制に類似する「多元的独裁」(政治学者ホフマン)の形をとった。
ミッテランが、フランス国が政府を置いた風光明媚な温泉地ヴィシー(当時の彼の言葉によれば「居心地が悪いわけでも退屈するわけでもない、醜い街」)に辿り着いたのは1942年1月のことだった。27歳を迎えたミッテランには学歴はあっても、一兵卒だったこと以外に、キャリアと呼べるようなものはなかった。兄ロベールの義父と妹の夫がヴィシー政府高官だったこともあり、その伝手(つて)を頼って職を求めた結果だった。
レジスタンス活動への接近
ヴィシー政権内の力学も急激に変化しつつあった。ドイツの影響を極力排除したいペタン派と、ナチス支配下でのフランスの地位を高めたいピエール・ラヴァル派との対立が高まったからだった。
機をみるに敏なミッテランが、ナチスとヴィシー政府占領に抵抗するレジスタンス組織に接近していくのも、こうしたヴィシー政府内の変化を感じ取ってのことだった。彼はドイツ軍に捕らわれた負傷兵や脱走兵の相互扶助組織のリーダーを務めるジャック・モーデュイという人物に出会い、レジスタンス活動に足を踏み入れる。もっとも、レジスタンスへの参加は反ヴィシー的態度からというよりも、フランス国が体現していた不毛な官僚制に対して「ボーイスカウトの精神、正道のキリスト主義(略)、献身的な愛国主義」(ミッテラン)に溢れる人々の協働に感銘を受けてのことだった。
43年7月、ミッテランは、ヴィシー政府高官がドイツでの捕虜と労働者の交換計画を訴える演説会場で、表立って反対意見を表明したため、ゲシュタポの監視下に置かれ、彼は地下に潜伏することを余儀なくされた。ミッテランは「数多くの分派から距離をとって、フランスを外からではなく、中から目覚めさせることを決めた。それに値するだけの年齢も権威もなく、大志に値する過去に代わるものは未来だけだった」と、この時の決意を後に語っている。 対照的に、フランスを「外」から変えようとしていたのは、ヴィシー政権の樹立をみてロンドンに亡命し、その後フランス解放の父となるドゴール将軍だった。
結婚と政界への足掛かり
アルジェで予想を超える成果を手にしたミッテランは、モロッコのマラケッシュ(かの地では黒人歌手でスパイだったジョゼフィン・ベーカーの接待を受けた)、ロンドンを再び経由して、本国への帰還を果たした(この時、飛行機を操縦したのは女優ジェーン・バーキンの父親である英海軍のデイヴィッド・バーキンだった)。
解放後のフランスが見えてきたこの時代、ミッテランは忙しく活動しながらも初恋の相手を失った痛手を癒やす相手と出会う。それが、ともにドイツで捕虜生活を送ったパトリス・プラの妻クリスティーヌの妹、ダニエルだった。
ミッテランにとって、ダニエルはセンチメンタルな恋の対象ではなく、自身がまさにこれから築こうとしているキャリアの伴走者だった。結婚は「くじ引きのようなもの」と考える、若くとも強い意志を持ったダニエルは、自身も婚外関係を持ちながらも、辛抱強く彼の人生を最後まで支えることになる。もっとも、ミッテランが育った政治環境と対照的なダニエルのそれは、彼が左派的な感性について深く学ぶ機会ともなった。これは、彼が70年代に最大野党となったフランス社会党を率いる際の大きな指針となったことだろう。
何れにせよ、ヴィシー政府の一介の役人に過ぎなかったミッテランは、1年を経ずしてペタン元帥、ジロー将軍、ドゴール将軍と、それぞれの時代の指導者に仕える振りをして、多くの重要人物の知己を得ることになった。ここまでの変わり身の早さでもって成功した人物を同時代に見出すのは難しい。政治家となってからも、時代の空気や権力配置に合わせて最適の手段を選ぶというミッテランのスタイルは、この時期の成功体験によるものなのかもしれない。
出馬へ
公人としてのミッテランのインタビューが最初に掲載されたのは、MNPGD機関紙『自由な人間』の44年8月24日付紙面だった。戦争捕虜担当事務局長のミッテランはここで「統一された博愛に満ちるという我々の原則で成り立つ人間関係と、意思との交換が実現することを望んでいる。(略)我々の共通の苦しみが、我々を武器と戦闘の友とした。向こうは我々に期待している。我々も向こうに期待していると伝えたい」と政界進出を匂わせた。記事で「若く、確言に満ちて、人を深い理性と鋭敏な知恵でもって導く」と評された彼は、戦争捕虜や脱走兵を支持基盤として当てにできたから、その前途は約束されたようなものだった。
ミッテランが所属を決めたのは、レジスタンス民主社会主義同盟(UDSR)という、元捕虜や復員兵を支持基盤とする、第三共和制の議員団を中心とする中道の小政党だった。この議員政党は、ドゴール派にも共産党にも、あるいは当時政権中枢にあったMRPにも居場所を見出せない政治家たちの受け皿であり、保革を橋する「要(かなめ)政党」となることを狙う党でもあった。また、ブルジョワ資本主義とこれに抗する共産主義とファシズムの対立に明け暮れた時代が終わって、自由主義と労働世界をイデオロギーに拠らないで和解させようとする政治方針をも掲げていた。政治的急進主義を嫌い、中庸を好んだミッテランがUDSRを選んだのはどく自然なことだった。
フランスでは、利益誘導の必要もあって国会議員と地方議会議員や市長職を兼務する、いわゆる「兼職(cumul)」が認められていたため、翌年には地元ネヴェール市議会議員、そして49年には地方(州)議会議員ともなり、後者については81年の大統領当選まで職を務めた。次章で見るように、彼は必要に迫られて59年からシャトーシノン市長も務めるが、歴代大統領の中でここまで長期に地方の公職を経験した政治家は珍しい。地方に愛着を持つミッテランならではのキャリアだった。
史上最年少の大臣
第四共和制で採られた比例代表制の下では、当然ながら連立政権が要請されることになる。 この憲政下で最初の首相(正式には「閣僚評議会議長」)となったポール・ラマディエのもと、政権は社会党、人民共和連合、共産党からなる、いわゆる「三党体制」によって構成された。他政党からも軽量級閣僚が迎え入れられたが、その中に旧軍人・疾病軍人担当大臣としてのミッテランの姿もあった。弱冠30歳、帝政時代を除けば、史上最年少の閣僚だった。
ミッテランのヴィシー経験
これまでみてきたように、第四共和制で将来を嘱望される政治家となるまでのミッテランの足跡を一筆書きでもって理解することは難しい。学生時代の極右サークルでの活動、捕虜生活を伴った軍役、ヴィシー政権での官吏としての職、レジスタンス運動の組織化など、わずか10年に満たないうちに、彼の行動指針は猫の目のごとく、時代の趨勢とともに変遷したからだ。「裏切りとみなされるかどうかは、タイミングの問題である」とは、フランス革命後の政界を生き抜いた外交官タレイランの言葉だが、それまでのミッテランの歩みを、裏切りや転向を重ねた迷走とみなすのであれば、よくある立身出世を目指す青年特有の野心が原動力だったと片つけることもできよう。
ミッテラン自身は、この時期の活動について「ペタン主義者(国民革命=フランスの伝統的な価値観への回帰と対独協力を柱とする)、元帥主義者(ペタン個人の奉者)といった形容詞は、同じものを意味しているのだからあまり関係がない。(略)重要なのは敵とともに歩んだか、敵に抗って歩んだかで、私は敵に抗って歩んだのだ」と総括している。レジスタンスといえば、ドゴール派と共産党によるものだったとする通説は1990年代に歴史家らによって見直しが進み、ヴィシー政権に近い者たちによるレジスタンスも重要な働きをしたことが明らかになっている。それでも戦後復興の中で求められた、ナチス支配にフランス人は一致団結して対抗したはずだというレジスタンス神話にあっては、ミッテランが辿った運命やその選択のように、わかりにくいことは事実である。
戦後フランスでも、対独協力政権たるヴィシー政府を頂いた経験は、歴史上のトラウマだったこともあって、研究対象となることが少なかった。ヴィシー政府時代のユダヤ人追放が国内でも広く知られるようになったのは、1971年に上述のパクストン等による資料調査が明らかになってからのことである。フランス歴史学界が等閑視してきた不都合な過去は、その衝撃から「パクストン革命」とさえ呼ばれたほどだ。
20世紀初頭に生まれ、政治体制や統治原理の変転を経験してきたミッテランにとって、歴史を裁く歴史を己のものとすることはできない相談だっただろう。戦後生まれのジャーナリストからヴィシー時代のユダヤ人迫害への関与についてしつこく尋ねられたミッテランは、次のように答えている。「若い君は、この平和な時代にいて、自分で何を言っているのか分かっていないのだろう。50年を経て、当時の文脈も知らず、誰もが懸命に自分の命を守らなければならない時代の何がわかるというのか。(略)公職追放はもう済んだことだ。政治家、扇動家、っともあくどかった対独協力者たちもだ。もう1回同じことをするわけにはいかない」と。
「あらゆる聖人に過去があり、あらゆる罪人に未来がある」と言ったのはオスカー・ワイルドだが、「善と同様、悪が人の姿になることは滅多にない。なぜなら聖人同様、悪魔は稀な存在だから」としたのは、先のヴィーゼルとの対談でのミッテランの言葉だ。少なくともヴィシー時代のミッテランは聖人でも罪人でもなく、そして善でも悪でもなかったのではないか。
追いかけてくる過去
ミッテランは、1960年代に相まみえるドゴールのような国家指導者のそれと比べればなおさらのこと、自身が生きた時代に対して受動的であったことは否めない。著名ジャーナリスト、オリヴィエ・デュアメルは両者の人格形成を比較して、ドゴールの歴史観は「フランスについてのある観念」(ドゴール回顧録での有名な言葉)に彩られていたのに対し、ミッテランのそれは「フラソスものもの」だったと的確に表現している。20歳余りの歳の差、軍幹部と一兵卒だったという違いはあるにせよ、ロンドンに亡命して戦後の英雄となったドゴールと、ヴィシー政府に身を寄せ、日和見主義的にレジスタンス活動に従事したミッテランの足跡は対照的だ。
しかし、ミッテランの日和見は多くのフランス人が取った態度でもあった。ナチスに「君はどっちの味方だ?」と問われて「私は風任せでして、今はヴィシー政府になびいています」と答えたのは、ほかでもない、映画『カサブランカ』に出てくるフランス人警察署長だった。
本心からではなくとも、過去に犯した過ちを認め、自分を自分たらしめた過去を自らの手で否定すべきなのか。それとも、主観を隠さず、過去の行動を隠さず、それは当時の自分にとって最善と思われたものだと理解を求めるべきなのか。ミッテランにとって誠実な態度と思われたのは後者だった。先に紹介したように、彼は、野党第一党の党首の時代である77年に発刊した論集『政治』に、自身がヴィシー政府のプロパガンダ誌に寄せた一文を収録することも躊躇わなかった。ミッテランの青年期の活動を詳らかにしたペアンの著作も、著者自身の調査だけでなく、公文書を含む様々な資料の提供をミッテランが許可した上で公刊されたものだった。それは、自身が歩んできたフランスの歴史と向き合う彼なりの誠実さではなかっただろうか。
第3章 政界のホープ──「野心は統治者になることに尽きる」
フランス革命で生まれた共和制は、その後、帝政や復古王政などを経て、第二次世界大戦後に第四共和制としてスタートする。手厚い社会保障制度の設計や主産業の国有化など多くの財産を残したものの、1947年1月、ポール・ラマディエが初代の首相に就任したこの共和制は、今日に至るまで評判の悪い政治体制である。ドゴールは同年4月に政治運動RPF(フランス人民連合)を結成して体制批判を強め、5月には米ソ冷戦による締め付けとコミンフォルム (国際共産主義運動)の方針から共産党が閣外に転じたため、第四共和制は左右両極からの攻撃対象となった。
日本でも名の知れた公法学者であるデュヴェルジェは、1789年の革命以来、1966年に至るまで、左派政権が10年、右派政権が20年、中道による政権が147年続いた事実を指して、中道政治を「永遠の泥沼」と呼んだ。その意味において中道で統治される第四共和制は「憲政の常道」でもあった。それは、ヴィシー政府という過去、さらに反体制派であるドゴールと共産党の存在からやむなく採られた道だったが、敗戦を招いた第三共和制と類似するという皮肉を生むことになった。
アフリカとの出会い
1950年6月にUDSR党首のルネ・プレヴァンが首相の座に収まると、帝国フランスにとって重要ポストである海外領土相がミッテランにあてがわれることになった。出世階段を順調に上っていったかにみえるが、植民地独立に追い風が吹き、ベトナムが独立を目指して戦ったインドシナ戦争(1945–54年)がすでに泥沼化していた時代である。15世紀に始まるフランスの帝国主義は第一次世界大戦後にもっとも膨張し、その支配領土下には当時の世界人口の約5%、6800万もの人々が暮らしていた。徐々に小さくなっていったとはいえ、第四共和制崩壊のきっかけを作るアフリカでは、アルジェリアやモロッコに約150万人の入植者が暮らし、サハラ以南のセネガルやモーリタニア、コートジボワール、チャドなど、まだ多くの植民地が残っていた。
海外領土相時代を振り返る著作『フランスの存在と放棄』(1957年)で、ミッテランは「独立」という言葉を用いず、民主的な制度を整えつつ、将来的にはより広範な自治権を認め、緩やかな連邦制へと向かうべきだと主張した。つまり、完全な独立は認めず、飽くまでもフランス連合を維持しつつ、対内的な自治権を最大限付与すべきとの提言だった。
植民地問題とマンデス゠フランスの導き
こうして、50年代のミッテランの政治キャリアは、憲政と同じように、植民地問題に翻弄されることになる。植民地の現状を変えたくないプレヴァン首相とも衝突したミッテランの海外領土相としての任務は7ヵ月で潰えた。政権与党の一角を占めるMRPがミッテランの自治権付与の方針に反対し、彼の罷免を首相に強く申し入れたからだった。
ミッテランが名実ともにUDSRのリーダーとなったことは、不安定な第四共和制の多数派形成において彼の存在を不可なものとした。そして、政治の師となるマンデス゠フランスとの出会いは、ミッテランを潜在的な首相となることを後押しすることになるのである。
フランスでは「最上位の刑事」とも呼ばれる、治安の責任者である内相は国政の鍵を握るポストだった。財相フォールとともに、ミッテランはマンデス首相と「トロイカ体制」を形成していた。そしてUDSR内の自派を固めるため複数の同輩を内閣へと誘うとともに、重用された専門家たちを率いて、植民地問題解決のための政策が練り上げられていく。マンデス政権という、過去との決別を掲げる内閣の重鎮としてわずか37歳で入閣した実績は、ミッテランの名を世間に知らしめることにもなった。組閣の日、ミッテランは会合の時間に3時間遅れて登場し、その大物ぶりを見せつけた。腕時計をつけない習慣はこの頃から始まったという。
植民地問題と欧州統合問題
喫緊の争点は、チュニジアに対する自治権付与の有無だった。当地では、フランス人入植者の準軍事組織「赤い手(マン・ルージュ)」と、イスラム集団の「頭をたたき割る(フェラハ)」との衝突が1950年頃から多発していた。地理的な近さもあり、北アフリカのマグレブ諸国は、インドシナとは比べものにならないほど重要な権益だった。
マンデス内閣はヨーロッパ問題にも苦しんでいた。当時の欧州統合の進展は冷戦構造に大きく影響されていた。朝鮮戦争もあっていアメリカが西ドイツの北大西洋条約機構(NATO)加盟と再軍備を1950年に後押ししたのに対し、フランスはシューマン外相とモネECSC長官主導のもと、その見返りとしてNATO指揮下に置かれる欧州防衛共同体(EDC)設置を求めた。西ドイツ軍をNATOならびにフランスのもとに置くことで、その軍事的脅威を取り除こうとする構想だったが、世論や多くの議員はドイツの再軍備や超国家的な制度に反対していた。
アルジェリア戦争での躓き
母イヴォンヌの友人で、ミッテラン自身が文学の師と仰いだノーベル文学賞作家、フランソワ・モーリアックは54年12月に「大政治を体現するステイツマンを罠に陥れようとする者たちは無力だ。その体現者はミッテランであり、その名を汚して彼を消し去ろうとする試みが惨めな失敗に終わった今、今度はより高度な次元で反撃がなされることだろう」と、マンデス支持の雑誌『レクスプレス』に寄せた。 それというのも、ミッテランはマンデス内閣の一員として軍事機密をリークしたとの非難を浴びており、議会で追及の対象となっていたからだ。これは植民地維持派ならびに反マンデス派による策略であることがすぐに明らかになったが、全幅の頼を寄せていた首相が事態収拾に動かなかったことでミッテランは深く傷ついたとされる。後釜となるフォール首相から再度の入閣要請があったものの、これを固辞したのはモーリアックのいう「より高度な次元」を目指す野心があったからだろう。
モレ内閣は57年5月に倒されたが、ミッテランは待ち望んだ首班指名を受けられなかったばかりか、新内閣の閣僚としても声がかからなかった。内閣の方針に反対して辞任を選んだマンデスと異なり、それまでミッテランは閣内で少数派とならないよう用心しつつ事態の悪化を防ぎ、次のチャンスを待つ戦略をとっていた。大統領ミッテランの経済顧問を務めたフランソワ・スタースの表現を借りるならば、モレ内閣におけるマンデスは道徳的なカントの提言に、ミッテランは政治の可能性を追求するマキャヴェッリの提言に従った。しかし、その賭けは実を結ばなかった。
「砂漠の横断」
政治家についてよく用いられるフランス語の表現に「砂漠の横断」というものがある。政治家のキャリアにおける不遇の時代を指す言葉だ。ドゴールにとっては在野にあった1947年から58年までが「砂漠の横断」に当たるとすれば、ミッテランのそれは1958年から野党党首となる71年までの期間が相当する。
ミッテランの姿は、議場で登壇した17名のなかにあった。彼はマンデスや共産党議員らとともに、ドゴール信認に真っ向から反対する演説をぶった。ドゴールが「政治を進めるのに無視することのできない不可実な権威を有しているのは事実」と認めつつ、他方で「将軍の存在は、彼の意図がどうあれ、少数の暴力行為が罰せられることなく民主主義を攻撃できることを意味している」と、就任が憲政の常道に反すると批判した。前日、各会派の代表と面会して協力を求めたドゴールに対して、ミッテランは「将軍、あなたは類い稀な側然の結果としてここにいる。しかしそれは必然ではない。あなたはこの世に生まれなかったかもしれないし、前に死んでいたかもしれないからだ」と、正面から啖呵を切った。ミッテランからすれば、喉から手が出るほど待ち望んだ首相の座をドゴールが掠め取ったのも同然だった。「君が私の死を望んでいるということはよくわかった。もちろん覚悟はできている」とドゴールは返した。かくして、彼はドゴールがいなくなる時代を待たなければならなくなる。
ドゴールは議会を半年間休会して政令(オルドナンス)でもって法律を通す権限とともに、新たな憲法制定の権限を議会に求めた。1944年に憲法構想を公表しながらも、これを実現できなかったドゴールは、危機に乗じて千載一遇のチャンスを見出したのだった。既成政党は、クーデタ騒ぎ収束のためにドゴールを呼び込んだが、彼は第四共和制の議会主権こそが危機を生んだと判断し、その根本的な治療を自身の政界復帰の条件としたのだった。
「自殺」か「他殺」か
1947年1月から58年6月まで続いた第四共和制の約11年にわたる幕は、ミッテランのそこでのキャリアとともに、閉じることになった。そして、これに代わるドゴールの手による憲法体制である第五共和制が59年1月にスタートし、今日まで続くことになる。政治学では、第四共和制崩壊とドゴールによる議会制の停止、そして新憲法制定は、一旦は民主主義が崩壊し、続いて民主政治が再起動されるという、先進国では極めて珍しい事例とされている。
議会政治の退場
ミッテランは、第四共和制という政治体制──彼の言葉を借りれば「第三共和制の欠陥を真似した蒼白のコピー」──を心底支持していたわけではなく、憲法案を問う46年の国民投票でも反対を投じていた。その第四共和制が用意した議会政治の舞台によって自らの立身出世が成し遂げられたのは皮肉な結果だった。
「比例代表制があらゆる種類の党派に対してその存在を主張するための機会を与えるのは明白だが、それが民主主義をして有能な政府を作らしめることを妨げ、従って非常事態で危険をもたらすことも明白である。(略)議会の内外における不断の闘争のために指導者たちの勢力がはなはだしく浪費されるので、民主的な政府の能率は、他の制度と比べて不可避的に低下する」ーこれは、戦前のヨーロッパの議会政治に対するシュンペーター『資本主義・社会主義・民主主義』(1942年)の診断だが、第四共和制の状況を予言するものでもあった。
戦後フランスは、イタリアなどとともに、他の先進工業国と比べて議会政治が安定を見出しにくい構造にあった。植民地や欧州統合といった党派横断的な争点が繰り返し現れ、緩い政党規律が議会内での合意形成を難しくした。そのような構造になったのは、ヴィシー政権の反省から、行政府に対する議会の優越が目指されたからだった。どの国でも、戦後体制は、常に戦前の否定から成り立つ。首相を任命するのは大統領だが、内閣は議会からの信認を得なければならなかった。議会に対して睨みを利かせる解散権の行使も憲法規定上、ハードルが極めて高かった。従って、内閣はしばしば自らの信認を賭すことで議員団を律しようとしたものの、議員らの自律性は高く、党執行部の統制も効かず、安定した多数派形成に難を抱えた。さらに、首相選出には、大統領のみならず、各政党や下院議長の同意が必要だったため、主導型というよりも協調型のリーダーが選ばれることが多かった。結果として、国難に際して果敢な決断を下せない仕組みを持ったことが第四共和制の致命傷となった。 他方で、こうした議員主導の政治だったからこそ、ミッテランが頭角を現すことができたのも事実である。
ドゴールが用意した新たな第五共和制も、20世紀半ばまでの政治文化を否定するものだった。 彼が半年間で準備した第五共和制憲法は、議会を「合理化」し、行政府の優位を確固たるものとし、その長である大統領に絶大な権限を与えるものだった。選挙制度も、比例代表制から小選挙区2回投票制へと変更され、これが政党組織の凝集性と、政党制の二極化を促すようになる。ドゴールが戦前から構想していたこの政治体制は、62年に大統領の直接選挙を求める案が国民投票で決まったことで、完成を見た。
民主主義が意味するところは大きく変化していった。政治史家ルネ・レモンは、フランスでは革命以来、保守的かつ議会主義的な政治と、権威的かつ人民主義的な政治が繰り返されると指摘したが、時代は前者から後者への転換をみた。そして、ミッテランは、この新たな政治への適応を余儀なくされる。そして、ミッテランによる「最大の過ちは失敗することではなく、失敗を克服できないことにある」という格言は、最大限に活かされることになるのである。
第4章 大統領への道──「革命とは決別のことである」
ミッテランが50年7月に海外領土相に任命された際、『レクスプレス』誌の著名ジャーナリスト、フランソワーズ・ジルーは次のように記した。「ミッテランは皆と同じように歳を取るだろう。そして皆と同じように、大きな困難や失敗、後悔、裏切り、疑念を経験するだろう」──その言葉は、在野に転じたミッテランの将来を予見するものだった。
58年9月に新たに提示された憲法案は国民投票で83%という圧倒的な支持を受けて、第五共和制がスタートした。ミッテランを含め、第四共和制の政治家たちはドゴール政治を戦時下の緊急避難先とみなしていた。しかし蓋を開けてみれば、母屋が乗っ取られることになったのである。
「イギリスは君主制国家のふりをした共和国であるのに対し、フランスは共和国のふりをした君主制国家である」とは、イギリスの歴史家トム・ホランドの見立てである。
オブセルヴァトワール事件
第五共和制の安定は、アルジェリア問題の解決とともにあらねばならなかった。独立問題に対して態度を明確にしていなかったドコールは、59年9月に独立容認へと舵を切り始め、その1年後に独立支持を表明、61年1月にはアルジェリアの「自己決定」を認める国民投票を行って、ついに独立が正式に決定された。続く62年4月には、FLNとの停戦協定である「エヴィァン協定」が二度目の国民投票で可決された。
アンヌとの出会い
オブセルヴァトワール事件直後のミッテランは、大きく落ち込んでいたと友人たちは証言する。涙をみせたことのない彼の目に光るものをみたとの談もあれば、自殺を仄めかしていたとする証言もある。彼自身も晩年になって、ひょっとしたら自殺していたかもしれない、とジャーナリストに語っている。
人は失意の中にあって、慰みを自然と求めるものだろう。そして、政権中枢にいた若き政治家が女性にとって魅力的でないはずがない。当時のミッテランを振り返って、先述のジルーはこう書いている。「打ち解けた彼はとてつもなく魅力的だった。(略)カサノバと同じく、彼は黄金の弁舌を持ち、言葉を使いこなし、愉悦な文章を繰り出し、目が眩むような批評をしてみせた。(略)政治と並んで女性は彼の人生の情熱の対象だった」。
ミッテラン58歳、アンヌ31歳という27年の歳の差にもかかわらず、2人は1974年に一人娘となるマザリーヌを授かる。いわゆる「愛人」と「隠し子」の存在は界隈では知られていたが、広く国民に広く知られるようになったのは、94年11月、父娘での外出時の写真が芸能人専門誌『パリ・マッチ』の表紙を飾った時のことだ。報道は事前にミッテランに知らされ、彼はそれを了承し、それ以降、現職大統領に第二の家族がいることは周知の事実となった。後日、保守系日刊紙『ル・フィガロ』のインタビューでアンヌのことを尋ねられた彼は「私には私生児がいる。だから何だというのだ」という有名な言葉を吐いた
「恒常のクーデタ」
アンヌに宛てた64年4月2日付の手紙には、次のような短い追伸が記されている。「アンヌ、ようやく終わった。『了(fin)』という言葉を本に書き添えた。とても満足しているし、嬉しいし、何よりもそのことを君に伝えたかった」。その本とは、反ドゴールの政治文書であり、生で最も誇る著作だとした『恒常のクーデタ』だった。
左派統一候補への道
政治日程上、反ドゴール派を結集しての反転攻勢の起点となるのは、1965年の大統領選だった。主要政治家の中でもっとも早くに立候補を表明したのは、第四共和制の閣僚の常連で、上院議員に転じた長年のマルセイュ市長、ガストン・ドフェールだった。彼は、マンデスに代わる支持先を探していた『レクスプレス』誌から、謎の「X候補」として、メディア・キャンペーンの支援を受けていた。大統領の直接選挙に反対し続けていたことから、反ドゴール派の期待の星だったマンデスの立候補はもはや期待できなかった。
時代は、いつも政治制度の特性を熟知した政治家に有利に働く。「(1962年に)大統領が直接選挙となってから候補者となることを決めていた」とするミッテランは、保革の遠心力が働く第五共和制下では、共産党の支持を得るのが不可々であることを予知していた。共産党の側も、大統領選で少なくない労働者層から支持を集めるドゴールを前に敗退するよりは、ミッテランをいわば盾にして、自陣営を固める方が都合がよかった。ミッテランが統一候補として推挙されることになったのは、依然として決定的な反ドゴール候補者を見出せず、大敗を予期した地主要候補者が様子見にまわっただけではなく、彼が「オブセルヴァトワール事件」の汚名を灌ぎ、政治生命を今一度取り戻すための強固な意思を有していたからだ。共産党に対するアレルギーも、ミッテランは上手に利用した。
ドゴールとの対決
65年12月の大統領選では、11月になってようやく出馬を表明した現職ドゴールに加え、ミッテラン、MRP党首ルカニエ、極右のティジェ゠ヴィニャンクール、さらに独立系2名(バルブ完議員ならびにマルシラシ上院議員)の計6名が、立候補に必要な国会・地方議員100名以上の推薦書を届け出た。
FGDSの始動
ミッテランが差し当たって必要としたのは、政党だった。大統領選出馬に際して「政党、数会、世俗団体、新聞、世論の一部からの支持もなく、資金もなければ資金源の当てもなかった」彼が戦い続けるための、欠かせない手段だったからだ。実際、大統領選でミッテランが構えた選挙事務所には電話4台、タイプライター5台、秘書数人が詰めるだけの粗末なものだった(ちなみにこの時のボランティアには、後に初の女性首相となるエディット・クレッソンがいた)。
非共産左派に残されていたのは、大統領選に合わせて急ごしらえされた民主社会左派連合(FGDS)だった。社会党(SFIO)と急進党、さらにミッテラン率いる共和国制度協議会(CIR)など、5つの政党・政治団体を束ねたプラットフォームだった。任期5年の下院の選挙は目前の67年に迫っており、大統領選の勢いを駆ってFGDSを組織化することが急務となった。
「5月革命」の衝撃
もっともFGDSと共産党の協力は大きな実を結ばなかった。67年3月の下院選では、第一回投票での得票はFGDS18.79%、 共産党22.51%となった。第二回投票でFGDSは先の選挙協定もあって野党第一党の座を仕留めたものの、共産党も20議席以上を積み増した。選挙全体としてみれば中道が痩せ細り、左派陣営全体の票は増えたものの、陣営内の両党の地位が逆転したわけではなかった。
この選挙での驚きはドゴール派が定数487議席中247と、僅差でしか過半数を制することができなかったことだった。大統領選から陰りを見せていたドゴール体制の失速がより明瞭なものになった。 ここから、68年5月になって未曽有の学生・労働運動が広がるのも必然だった。フランスでは「68年5月」と呼称されるこの「5月革命」は、未だもって神話的に語られる、多義的な出来事だった。きっかけを作ったのは、80年代に緑の党の著名政治家となる、「赤毛のダニー」こと、大学生ダニエル・コーン゠ベンディットらが率いる反アメリカ帝国主義運動だった。これらの学生を懲戒した大学当局に対し、最大で二万人の学生たちがデモを開始、大学を占拠してパリのカルチェ・ラタンを中心に治安当局と衝突した。これに労働運動も加勢しゼネストに入ったことで、フランスは戦後最大の危機を迎えた。パリ大学の講堂に陣取った学生たちを相手に、サルトルは「私にとって重要に思えるのは、ブルジョワの子息たちが革命精神でもって労働者とともにあることだ」と鼓舞した。
ドゴール退陣と新生社会党の船出
それでも、「5月革命」は誰もが予期しなかった形でドゴール退陣を用意することになった。 69年4月、ドゴールは、伝家の宝刀である国民投票を行い、事態の鎮静化を試みたものの、この賭けに敗れたためだった。「5月革命」は、より多くの社会参加を求める意識から生じたと感じた彼は、国民投票で上院を改組して職能団体や地域代表を議員とする機構改革と、地方自治を拡大する州議会設置を問うた。しかし、一般有権者にとって憲法改正を伴うこうした改革は複雑なものに映り、大統領の言認もすでに薄れていたことから52.4%の「ノン(否)」でもってこれを否決した。投票のあった27日の夜、大統領は辞任を潔く表明し、あっけなくドゴール時代に幕が引かれた。
65年間という期間を経て初めて我々が結集することで社会主義の底流は統一された。(略)この統一をいかなるものへと変えていくべきだろうか。政党が生まれたのであれば、その使命は権力を奪取することだと願おう。(略)それは改革か革命かといえば、革命であるべきだ!(略)それが平和的であろうが、暴力的であろうが、革命とは断絶のことである!この断絶を受け入れぬ者、既存の秩序、資本主義社会との決別を受け入れぬ者は社会党員となることはできない。(略)人々を腐敗させ、買収し、踏みつけ、殺し、人間精神を腐らせる金銭の権力、つまり独占を倒さないとならないからだ!
1977年に刊行されたジャン・トゥシャール著『1900年以降のフランス左翼』は、現代を代表する左派政治家としてミッテランの名に言及し、彼が「社会主義者に本心から転向した雄弁かつ才能ある指導者であり、(略)異論の余地なき左派の代表となった」と紹介した。しかし、22年間にわたって自身が率いてきた党がミッテランに奪われるのを目の当たりにした老獪なモレは、その変身に騙されなかった。「彼は社会主義者になったのではなく、社会主義者のように喋ることを学んだだけであって、これは無視しえない違いなのだ」と。
左派政治家としての再出発
古くはユゴーやシャトーブリアンをはじめとして、フランスの政治家が本を著すのは珍しいことではない。第五共和制の大統領に限ってみても、全員が最低でも1冊は自著がある。60年代に『ル・モンド』で活躍した名物記者ヴィアンソン゠ポンテは、「統治することは書くことであり、書くことは統治することだ。(略)我が国では政治的野心は文学的野心とともにある」という。ミッテランの特徴は、先にみた『恒常のクーデタ』のように、新たな政治方針に取り組む際に自著を出版することにあった。 1969年にミッテランが公刊したのは、著名ジャーナリストのアラン・デュアメルがインタビューし、構成した『私自身の真実』だった。この書で、彼は自らを明瞭に左派として位置づけた。「人々は左派とは自由や平等、あるいは進歩や幸福のことだという。私に言わせればそれは正義である。確かに私は左派、ましてや社会主義者に生まれついたわけではない。(略)それでも左派が何かと問われれば、それは今や社会主義のことだ」。
ドゴール大統領が「演じる」ことに長けた政治家だと評したのは、フランス政治史家ホフマンだったが、その能力はミッテランも引けをとらなかった。ただ、ミッテランが社会主義者となったのは、権力欲しさゆえだったと一笑に付すのは安易すぎるだろう。彼の主張には金銭が人間関係を支配することへの嫌悪が含まれており、その根底には幼少期からのカトリック的価値観が反映されていた。本来は水と油の関係であるカトリシズムとマルクス主義は、ミッテランの中では融合できるものだった。社会の側でも、戦後に花開いた大衆文化と自由主義に距離を取るようになったカトリック界隈の保守化に反発して、社会正義を擁護しようとする雰囲気が漂っていた。
二度目の大統領選
もっとも、第五共和制で政治の力学を決するのは大統領選である。69年に当選したポンピドゥーとの決戦は76年となるはずだった。そのポンピドゥーが白血病で突然逝去したことをミッテランが知ったのは、サンジェルマン大通りにある有名店「ブラッスリー・リップ」で遅い夕食を取っていた74年4月2日のことだった。
ドゴール派からは、ポンピドゥーのもとで最初の首相となったシャバン"デルマスがいち早く出馬表明をしたものの、大統領と衝突し、労働者寄りの政策がドゴール派議員団から支持されなかったため、失速を余儀なくされた。代わりに期待を集めたのは、ドゴール大統領時代に財相を長らく務めた中道の小政党、独立共和派(RI)を率いるヴァレリー・ジスカール゠デスタンだった。「フランスのケネディ」と呼ばれることになる弱冠48歳のジスカールは、新しい時代の中道保守を体現する人物だった。また、戦後フランス極右の代名詞となるジャン゠マリ・ル・ペンが初めて大統領選に出馬したのも、この時だった。
石油ショックのダメージ
討論では、論戦のほとんどが経済に集中した。フランスの戦後に言及する時、前章で紹介した「栄光の30年」という言葉が多く使われる。しかし、豊かさと同義だったこの時代は、石油ショックの影響が色濃くなる70年代に終わりを迎えた。
左派の躍進
「危機を統制できない右派の時代は終わらせるべきだ」(ミッテラン)──。世間の目は78年に行われる下院選に注がれていた。76年のカントン(郡)選挙で社共を中心とする左派は、初めて右派を上回る得票を実現し、続く77年の市町村選挙では「津波」と称されるほどの躍進をみせた。これも高度成長と第三次産業化によって都市化が飛躍的に進み、中産階級の誕生や女性の社会進出がかつてないほど生じたためだった。第五共和制に入り壊滅的状況にあった左派勢力は、ほぼ20年を経て、ようやく復調の兆しを見せた。しかも、陣営内での得票率は社会党が共産党を上回り、その立役者がミッテランであることは誰の目にも明らかだった。彼が党首となってから、党員数も15万人へと倍増した。
ライバルの登場
ミッテランは、20年をかけて権力の座に手が届くまであと一歩の所まで辿り着いた。彼はあくまでも大統領の座にこだわり、仮にコアビタシオンが実現しても首相には党ナンバー2のピエール・モーロワを据えるつもりでいた。焦点は、81年の大統領選に絞られた。 それでも、ミッテランは大統領選初挑戦となった65年から数えて、すでに4つの国政選挙を戦い、何れにも敗北を喫していた。3年後に迫る大統領選を控えて、ミッテランに代わる左派候補者として闘争心を燃やす野心家が出てきても不思議ではない。その人物こそがロカールだった。
理想肌で経済通、プロテスタントの個人主義者ロカールと、権威主義的で老獪な戦略家ミッテランとの相性は最初から悪かった。両者を良く知り、後に大統領補佐官となるスタースは、ミッテランは人々の心情に訴えかける「ロマン主義的文化」の持ち主であり、反対にロカールは論理を重視する「科学の文化」を身に付けた、正反対の人物だと評した。
歳をとっても若々しさが残ったロカールは、ミッテランと比べればなおさらのこと、威厳と人物眼に知けていた。対して、ミッテランは極めて優れた状況判断を下して尊敬を集める「自然な権威」を身に付けていることは、万人が認めるところだった。後世に以下のようなエピソードが伝えられている。ロカールがミッテランに面会を求めてその書斎に迎え入れられた際、書き物をしていたミッテランはゴミ箱に手元の紙を投げ捨てようとして、これが床に落ちたという。それをみたロカールは落ちた紙を拾って自分でゴミ箱に捨てた──ミッテランがわざと床に落としたかどうかはわからないが、そんな人物は自分にとって敵ではないと悟ったことだろう。次章でみるように、ロカールは88年に首相に任命されるが、大統領の座を射止めることはついにできなかった。
三度目の大統領選
三度目の大統領選を前に、前回の轍を踏むまいと、ミッテランは多くの党幹部を配置して、キャンペーンを入念に展開した。81年に入って、各地で28回にわたる大規模集会が開かれたが、何れも同じ形式がとられた。まず夜7時半から音楽やシャンソンの部が始まり、ジスカールの失政を主張する映像が流れた後に党幹部の鼓舞で場を盛り上げ、その後ミッテランの1時間半にわたる演説で大団円を迎えるという構成だった。これらは都市部で数万人、地方でも数千人を集めるほどの盛況を呈した。
さらに、ミッテランは7年前の復讐を果たす。陣営は為のファイルをミッテランに渡し、ジスカール陣営にそれがあたかも、後述する、彼に嫌疑がかけられていた贈収賄疑惑に関する新事実であるかのように匂わせた。ジスカールも小細工をした。彼は脈絡なく「私も、あなたも良く知っている街、クレルモン=フェランの話をしてみよう」と、愛人アンヌの存在をその出身地を口にすることで、暗に示唆し、動揺を誘った。これにひるまず、ミッテランは畳みかける。「前回、あなたは私を「過去の男』と言ったが、あなたがもはや『過去形の男』になったようだ」──コミュニケーション担当を担った映像作家モアティは、ミッテランに「女性を口説く時のように振る舞えばすべて上手くいく」とアドバイスしたという。大役を務め終えたミッテランは満足して、打ち上げで好物の生ガキを平らげた。
左派大統領が意味したもの──「81年5月」
国民の集合的な記憶を、フランスでは「〇年〇月」と、単なる年月で言い表すことが多い。戦後では未曽有の学生・労働運動をみた「68年5月 (mai 68)」と、もうひとつミッテランが大統領になった「81年5月 (mai8l)」がこれに当たる。年月を聴くだけで、賛否を伴う、様々な感情が呼び起こされるからだ。アメリカの同時多発テロの「9・11」、日本の東日本大震災の「3・11」も同様だろう。
世論調査をみる限り、「81年5月」時に、自らを右派とする有権者は28%に過ぎなかったのに対し、左派を自認する有権者は30%に上っていた(中道は23%)。ミッテランが言ったように、時代は確かに左派の側にあったのである。
ミッテランもその『恒常のクーデタ』で、第五共和制を舌鋒鋭く批判した。しかし、74年の大統領選に出馬して以来、彼は徐々にこの政治体制に順応していった。「第五共和制という制度は私が意図したものではないが、私にとって都合が悪いものではない。その昔、これについて何か書いたことはあるが」という後年になってからのミッテランの言葉は、著しい体制変動を経験したフランスで、第五共和制による政治的安定が党派を問わず認められたことを意味した。
第5章 社会主義から欧州統合へ──「私はヨーロッパ建設と社会正義の間で迷っている」
フランス随一のクオリティペーパー『ル・モンド』紙は、風刺画家プランチュの作品が売り物のひとつだ。81年5月12日の同紙では「社会党の大統領なのにエッフェル塔がまだ立っている!」と驚く市民の姿を描いた絵が掲載された。
ミッテランが権力獲得の手段として掲げた数々の急進的な政策は、早々に挫折を余儀なくされる。イギリスのサッチャー首相とアメリカのレーガン大統領による統治を経験したこの時代は、すでにグローバル化と市場経済、そして小さな政府を推し進める新自由主義の台頭をみていた。ミッテラン社会党による「一国社会主義」の実験が逆風に晒されることは不可避だった。社共の躍進をみた老思想家のレイモン・アロンは、77年時点ですでに以下のように見越していた。「フランス経済はいま、今世紀はじめて競争で先端を走る国になろうとしている。しかしこのチャンスを狙うのは古き社会党である。向こう見ずで分裂ぎみのこの党は、あらゆる所で失敗に終わった実験を試みようとしているのだ」と。
行き詰まる経済政策
フランス大統領は、自らと正反対のイメージを持つ人物を首相に任命する傾向がある。首相モーロワは技術専門学校の教員出身で、労組の叩き上げ、ミッテラン派と同調することを常としてきた人物だった。長年市長を務めてきた街の名をとって「リール市の赤ら顔」という仇名で通っていた。包み込むような体格と大きな手で握手をする、愛想が良く、実直かつ真摯な人柄の持ち主である。
問題は、通貨フランの為替レートだった。社共政権の誕生が金融市場から嫌われ、さらに財政赤字拡大と経常収支悪化からフランは売り叩かれ、これが物価高と輸入増につながり、さらなるフラン安を招くという悪循環に陥ったためだ。購買力が引き上げられて生まれる内需は国内産業の追い風となるはずだったが、競争力をいたため、消費者のお金は輸入製品に向かい、これも経常収支とインフレを悪化させた。世界経済も81年から82年にかけて減速傾向にあり、アメリカやイギリスのみならず、西ドイツも金融引き締めに転じたため、ミッテランのフランスはアクセルをどれだけ吹かせども、前に進むどころか、空転を余儀なくされた。
社会主義か欧州統合か
このように、81年秋頃から83年春ごろにかけてミッテランに突きつけられたのは、自らが掲げ、実現の期待がかけられた社会主義的政策を貫徹するのか、これまでフランスが築き上げてきた欧州統合の舞台から降りるのか、という選択だった。EMS離脱は、過去にイギリスや西ドイツが一旦は離脱したこともあり、端から排除される選択肢ではなかった
社会党党首時代からそうであったように、彼は古くからの友人、そして大統領府・政権内の側近、そして夜には実業家や専門家などのインフォーマルな情報源から、どのような政策を採用すべきかについて多くの情報を集めた。これも、政策の採用に当たって「問いをみつける者は好きだが、答えを出す者は怪しいと思うこと」(ミッテラン)を常としていた彼のリーダーシップ・スタイルゆえのことだった。
「レーガンとサッチャーが勝利を収めつつある」とミッテランはドロールに八つ当たりした。 二度の石油ショックを経験してケインズ主義にはすでに死亡宣告が出され、時代は金融政策に頼るマネタリズムを軸とする新自由主義を歓迎するようになっていた。ミッテランはモーロワを首相に据えたまま、閣僚数を減らした小幅な内閣改造を行った後、国民に社会主義路線がもはや維持不可能であることを宣言した。3月23日の15分の短いテレビ演説で、彼は「フランスは世界規模で生じる出来事に一国だけで対処できない」と、政策の撤回が不可避だと白旗を掲げることになった。
改革の嵐
経済政策で目も当てられない失政を犯したとはいえ、政権がこの時に取り組み、大きな遺産となったものもあった。前章でみた死刑廃止だけではない。地方分権やメディアの自由化、労働者の交渉権向上、同性愛の非刑罰化、バカンスの5週間への延長、定年の5年引き下げ(60歳)などである。社会文化面での大きな改革が成し遂げられ、国民生活を変えたことは間違いない。
確かに「社会主義とは文化的なプロジェクト」(ミッテラン)でもあった。文化政策を最初に発明したのはフランスとされるが、現在に通じる文化大国フランスという方向を確定させたのも、社会党政権だった。63年にナンシー世界演劇祭を手掛けた文化相ジャック・ラングのもとで倍増された文化予算は歳出の0.75% (93年から1%)を占め、これを元手に各地の美術館や映画館、図書館施設が更新され、文化専門校などが新設された。ガラスのピラミッドを中庭に建造したルーブル美術館やバスチーユの新オペラ座、ミッテランの名を冠した新しいフランス国立国会図書館フランソワ・ミッテラン館(BNF)なども、こうした施策なくして我々が目にすることはなかった。書籍価格の全国均一化がなされたのも81年のことである。
ヨーロッパ建設への傾斜
フランス大統領は、創設者ドゴールの意志を反映して、外交と安全保障を「専権事項」とすることが慣例となっている。大統領の意向は無視できないとはいえ、憲法規定上、内政は時の政権の責任となる。政治家が新たな政策的次元を切り開いて起死回生を図ることを、「前方への逃避」などと呼ぶが、経済で失敗したミッテランにとって、フランスの威光を取り戻し、自らの名を歴史に残すためにも、外交へと傾注することは当然の成り行きだった。
独仏和解と欧州統合の象徴として、仏独両首脳が84年9月に (第一次世界大戦の激戦地)ヴェルダンの無名兵士の墓を前に手を握り合っている写真は有名だ。この地は、コールの叔父が第一次世界大戦の戦闘で死んだ戦場の近くで、そしてミッテランが第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜として収容されていた地でもあった。この時、ミッテランから右手を握られたコールが少し驚いた表情をする映像が今でも確認できる。
国際舞台でのデビュー
81年6 月、モーロワ社共政権による初閣議に合わせて来仏したアメリカのブッシュ副大統領は、昼食の席でミッテランに論されていた。「なぜプロテスタントよりもカトリックの多い国の方が共産主義者が多いか、お解りでしょうか。それは信者に他の教会のことに口を挟まないようローマ教会が躾けたからです」──ミッテランは、共産党を凋落させるには、政権に取り込むのが最善の手だと説得した。
若々しく、ジョーク好きな俳優出身のレーガン大統領と、教養に満ちた思慮深いミッテランは対照的な指導者だった。あるフランスの政治学者と外交官による共著は「一方は愛嬌たっぷりな保守派の説教師、一方は冷静にものを考えるインテリ社会主義者」と述べ、両者の対照が1980年代のサミットを彩っていたとする。ミッテランは、アメリカ大統領のことを「伝統と直感を重んじる、何よりも天性的に躍動的な人物だ」と、ソ連共産党書記長になったばかりのゴルバチョフに伝えている。他方でレーガンに対して、ゴルバチョフは「心が広く、回転が速く、柔らかな知性の持ち主」と評価してみせた。
ミッテランはレーガンからの個人的な言頼を得ることに成功していた。きっかけのひとつは、ソ連国家保安委員会(KGB)のヴェトロフが、フランスの国土監視局(DST)に約1年にわたって自国の最高機密情報を流し続けた冷戦時代最大のスパイ事件「フェアウェル事件」にあった。この情報をDST長官から就任日に知らされたミッテランは、オタワ・サミットでその事実をレーガンの耳に入れた(レーガンは最初ミッテランに「さようなら(フェアウェル)」と言われたと思ったという)。その後、アメリカ中央情報機関(CIA)とDSTは共同作戦を実施し、西側に潜む多数のソ連スパイを追放することに成功した。
もちろんアメリカとは、通商問題や「スターウォーズ計画(戦略防衛構想=SDI)」への反対など、足並みが乱れることも多かった。「友として同盟はするが、従属はしない」これはヴェドリーヌによる、ミッテランのアメリカ外交の基本的精神を表す有名な表現だ。フランス大統領の外交スタンスは、ジスカールのようなアメリカやNATO重視の「大西洋主義者」か、ドゴールのようなロシアを含む欧州重視の「大陸主義者」の何れかでとらえられることが多い。しかし、こと微妙なバランス感覚が求められる外交安全保障政策において、そのような二分法は必ずしも有益ではない。そのバランスを取るのにミッテランほど長けた大統領はいなかった。
ファビウス内閣の発足とFNの国政進出
大統領は、経済失政ですでに傷ついていたモーロワ政権の交代を決断し弱冠37歳のローラン・ファビウスを首相に据えた。史上最年少の首相となるファビウスは74年の大統領選からミッテランの経済政策の責任者を務め、モーロワ内閣で予算相、次いで産業相となった若きホープだった。大統領の人気が下降する際、内閣改造でもって首相を「盾」として使い、息継ぎする手法はフランス政治での常套手段だ。「転回」を既定路線とした新内閣に、共産党閣僚の姿ももうなかった。
FNは移民問題を争点化しようと、78年の下院選時のスローガンを「100万人の移民は100万人の失業者! フランスとフランス人ファースト」としていた。社会では、すでに人種差別や移民をめぐる対立が化していた。当時、人口に占める移民の割合は約7%に過ぎなかったものの、89年には3人のムスリム女子生徒がヘッドスカーフを外すのを拒んで放校される事件が起きるなど、イスラム文化(当時はまだ「アラブ」と呼ばれていた)が否定的な扱いを受けるようになっていた。世俗より宗教を優位に置くイスラムと、フランス革命以来の共和主義から厳格な政教分離を国是とするフランスは折り合いが悪い。そして、86年の下院選でFNは得票率10%、 35議席を得て、念願の国政進出に成功した。
コアビタシオンの到来
ミッテランは閣僚に向けて、FNの議席獲得よりも、右派による政権交代の方が国にとっての大問題となるのだ、と自身の判断を正当化した。しかし、86年3月の下院選では、予測通り、社会党は過半数を維持できず、大統領と首相の党派が異なる「コアビタシオン」──ミッテランは「コエグジスタンス(共生)」と呼んだ──が現実のものとなった。パリ市長だったシラク率いるRPRと友党UDFが577議席中290議席を得て第一党となり、社会党は54議席減となって野党へと転落した。極右FNも、共産党と並ぶ35議席を獲得した。ちなみにFNは、2018年からRN(国民連合)へと改称、2022年下院選で88議席を有して野党第一党となる。
憲法は閣議の主宰も大統領権限のひとつに挙げている。通常、閣議は毎週水曜に持たれるが、コアビタシオン下の初回閣議は、異例なことに3月22日の土曜に持ち越された。閣議が開かれるエリゼ宮の「サロン・ミュラ」では、楕円形のテーブルの真ん中の置時計を挟んで大統領と首相が対面して座る。ミッテランは、それまでのように閣僚らと握手せず、「我々には(大統と政府の役割を定めた)憲法第20条という素晴らしい条文がある。(略)政府の権限はあなた方に、私のそれも(第5条に)明確に定められている」と述べた。憲法第20条は「政府は国家の政策を決定し、指導する」とし、第5条は「大統領は、国家の独立、領土の一体性および条約の尊重の保障者である」と謳う。すなわち、内政は保守政権が、しかし外交安全保障は大統領がリードする、との宣言だった。コアビタシオンは、党派を超えた指導者──国父と言ってもよい──へとミッテランを押し上げることになった。実際、大統領の支持率は82年6月の最低水準から反転し、87年9月には過去最高の61%を記録した。イデオロギーと党派性を嫌い、対立するアクター間の仲介を通じたリーダーシップを得意としたミッテランの政治家としての本領が、むしろコアビタシオンという例外状況によって発揮されることになったのは、皮肉としかいいようがない。
ミッテランとシラクの政治家としての相性は良くなかった。前者は後者の粗雑さを嫌い、後者は前者の尊大な態度をあげつらった。ただ、大方の予想を裏切り、憲政史上初のコアビタシオンは、細かな確執はあっても、さほどの混乱は生じなかった。大統領は政権に、政権は大統領に失政の責任をなすりつけことが出来ると同時に、あまりにも激しい互いの批判は、双方に対する国民の印象を悪くするという、ある種の相互依存関係に陥るためである。
ただし、二度目の首相職を務めるシラクは、それまでの社会党政治を全否定するかのように、この時代の主流である新自由主義的政策を推し進めた。そのひとつが、社会党政権時に国有化された企業を含む27グループの66企業、 49金融機関の民営化だった。金融・証券企業を中心とした株式上場はGDPの約2%に相当する国家歳入となった。
病との闘い
がん手術を大統領が受けていたと国民が知らされたのは1992年になってからのことだった。病の兆候は80年末からあった。ミッテランは大統領就任直後から足腰に痛みを覚えるようになり、81年11月の検診で前立腺がんに侵され、それも骨に転移していることから、最長でも余命3年と宣告された。彼の父と兄も同じ病に倒れている。最高権力者の座をとうと手に入れた直後のこの時のミッテランの心境はいかほどのものだっただろう。「人生は生きるには短すぎる。素晴らしきことは瞬間にあるということを知るのは、もっと後になってのことだから」。ミッテランが70年代に書き残した言葉だ。
「悲惨ゆえの叡智」という、フランスの哲学者マルセル・コンシュの言葉がある。余命を悟った際に、残りの人生により多くの意味を見出す精神のことを指す。
もちろん、最高の治療が施されたことは間違いない。しかし驚異的なことに、その後10年以上もの期間を生き永らえたのは、ミッテランのこうした内面世界の充実と、死に対する能動的な態度があってのことと解するしかない。過度の痛みに耐え、放射線治療を受けながらも、大統領の知的能力が最後まで衰えていなかったことは、政敵を含め、多くが証言するところだ。
二期目への挑戦
ミッテランが再出馬をいつ決断したのかは、必ずしも定かではない。しかし、現職大統領が再選を目指すのは自然なことであり、体調も思われたほど悪くなかった。彼は87年末までに内々に選対チームを立ち上げ、選挙スローガンを「ミッテラン世代」とすることが決まった。 シラク首相をむしろ党派的な人物として描写し、自身の戦後文化の体現者としての立ち位置を強調したこの選挙戦略は、81年のそれとは真逆だった。88年3月22日の特別ニュース番組で、ミッテランは自身の立候補を正式に表明し、「私はフランスの団結を望んでいるが、分断を望んでいる者もいる」と、首相を暗に批判した。71歳という高齢で立候補することについて問われた大統領は、「正直に言えば10歳若ければと思うが」と前置きしつつ、65年に再選されたドゴール大統領よりも4歳若いこと、さらに作家ジュール・ロマンによる「青春とは自分の前にあるもの」という言葉を披露した。討論において才気煥発である点は、昔と変わりなかった。
ミッテランが再選を目指したのは、勝利がほぼ確実視されたためでもあった。共産党の失速もあって、ミッテランは左派票を独占できた。対する右派陣営は、現職シラクに加え、連立パートナーUDFの候補、さらに全国的知名度を得たFNのル・ペン票で割れていた。
ロカール再び
5月8日の決選投票では、ミッテランは得票54%を得て、思惑通り、二期目を確実にした。保守派の牙城からも多数の票を得た完全な勝利だった。81年の選出が左派の栗田に大きく依拠したものだったとすれば、二期目は文字通り、党派を超えた国家元首として選ばれた。
カールに言わせれば、ミッテランはあまりにも政治の「力」を奉しており、大統領にとっては、新首相が繰り出す言葉は「十分に理解できるものではなかった」。文化と法を世界の中心に据えるミッテランと、社会科学の知識をもとに物事を精力的に動かそうとするロカールは対照的な政治家だった。ミッテランは首相の政策担当者らを「野蛮人」呼ばわりし、彼の取り巻きは「ピューリタンのボーイスカウト達」と蔑んだ。
それでもミッテランがロカールに首相の座を任せたのは、「開放」のスローガンのもと、社会党以外からの閣僚を迎えた、刷新感のある政権を作りあげたかったからだ。
ポスト・ミッテランの戦いとスキャンダル
憲法での再選禁止の規定は当時まだなかったが、ミッテランの高齢を考えればなおさらのこと、三選へと踏み出すことは考えられなかった。ここから、社会党内では早くも後継者争いが激化していた。90年3月に開催されたレンヌ党大会で、ミッテラン派はファビウス元首相とジョスパン教育相とのリーダーシップ争いに見舞われ、多数派形成に失敗した。社会主義イデオロギーにもはや依存できず、派閥もかつてのような政策的な競争集団としての機能を果たせなくなっていた。
99年になってからのことだが、大統領の私生活の秘密を守るため、83年から86年にかけて約150人近くの諜報員が盗聴に携わり、著名ジャーナリストやファビウス首相の妻のみならず、アンヌの知人などもその対象になっていたことが暴露された。首相官邸の元幹部からも、大統領はポストや叙勲でもって「人心を買収している」との批判が出されるようになった。体制に忠誠を誓う人物に地位や名誉を与えるのは、昔から権力の役割であることは確かだが、進歩と改革を謳うクリーンなイメージを持つ左派政権だけに、こうした汚職疑惑は大きなダメージとなり、大統領の支持率にも影響した。もっとも、次章でみるように、腐敗がその後、元首相の自殺の引き金を引くことになるとは、この時、誰も予想していなかったはずだ。
激動の時代への助走
大晦日に恒例の国民に向けたテレビ演説で\ミッテランは1989年がフランス革命200周年に当たることを想起させ、ロカール内閣が進めた改革をめ称えた。そして、「今からわずか4年で、我々を含む3億2000万人のヨーロッパ人がともに暮らすことになる。(略)これは大きなリスクだという人々もいる。そうかもしれない。しかしその道はすでに選ばれたものであり、あなた方の名において、我々のような創造的な国がそのエネルギーと才能を活かすことができれば、歴史など恐れるに足りないことを約束する。本当のリスクは孤立し、内に閉じ籠もることなのだから」とぶち上げた。自身が先鞭をつけた92年末までの市場統合こそが、第二期目の最大の目標になると表明したのである。
80年代に、フランスのみならず世界の社会科学に大きな影響を与えたのは、社会学者ピエール・ブルデューによる『ディスタンクシオン(卓越)』(79年刊) だった。「文化資本」という概念を広めたこの書は、単に経済的・金銭的な多寡ではなく、人々の必ずしも目に見えない「文化的な卓越」こそが社会での成功を約束するものであり、これが新たな社会的分断や不平等の源泉になっていると説くものだった。 グローバル化と経済不況、移民問題、個人主義化、旧階級の衰退と新たな社会階層の出現、アイデンティティ政治など、現代フランスをなおも苦しませる要素は、この時代に出揃っていた。
第6章 ドイツ統一とポスト冷戦時代の始まり──「自らの手でヨーロッパを作り出す」
私はドゴールの列につらなるという意味で最後のフランスの大統領となるだろう。(略)なぜなら、これからは欧州統合やグローバル化、不可避的な制度の発展があるからだ。(略)これからの大統領は「スーパー首相」のようにはなっても弱い存在に留め置かれるだろう」──ミッテランが95年5月、大統領の務めを果たし終える直前にジャーナリストに漏らしたとされる言葉だ。
すでに1981年10月、当時のシュミット西独首相を別荘に招いた会談で「10年以内」のドイツ統一の可能性に言及していたミッテランも、かくも事態が流動的になるとは予想していなかったに違いない。デンマークでの欧州理事会で壁崩壊の一報を耳にした彼は、事態を歓迎しつつも「既存の秩序から脱するのは良いが、新たなバランスはまだ作られていない。過去よりも良いかもしれないが、難しいものになるだろう」と帰らした。
ドイツ問題再び
欧州統合が始まった理由のひとつは、フランスにとっての「ドイツ問題」を解決しなければならないことにあった。ナポレオン戦争に始まり、普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、国境沿いの資源争いもあり、ヨーロッパは仏独間の戦争の舞台であり続けた。
ある歴史家の言葉を借りれば「ヨーロッパとは昨日の敵を手助けすること、つまりビロードの手袋をはめた鉄の手でドイツを押さえること」を意味したのである。
帝国の再編と領土分割こそが戦争の要因になることは、歴史を深く知っていたミッテランにとっては常識だった。自身が執拗に主張したように「ヨーロッパを1913年(第一次世界大戦前夜筆者註)に戻さないこと」を目的にしつつ、他方で統一は歴史の超勢であること、ドイッ人の自己決定に委ねなければならないことも十分に理解していた。彼の政治と人生がそうであったように、バランスを取ることこそが重要だった。
安定への固執
ミッテラン最後の著作となる『ドイツ、そしてフランスについて』(97年刊)で、自身が統一に際して最も重視したのはポーランドとの国境問題だったと懐述している。ドイツーポーランド国境は、ドイツの処遇を含む戦後問題が主題となった45年のポツダム会談でも解決をみず、平和条約締結まで確定しないというのが、西ドイツの公式見解だった。冷戦の出口がみえれば、冷戦以前の地政学的問題が頭をもたげてくる。国境をめぐって紛争が起こらないとも限らなかった。ヨーロッパ東部は、第一次世界大戦勃発のきっかけとなった民族紛争や、第二次世界大戦中には大量虐殺の場となってきた。ミッテランは再三、ヨーロッパが「歴史と地理からなる」と述べてきたが、これに敏感な指導者にとって、領土問題は看過できるものではなかった。そしてドイツ統一はこの問題を再燃させる可能性を秘めていたのである。
「二大国に依存していたヨーロッパは、自らの家に帰るかの如く、歴史と地理に戻ろうとしている。(略)もし分裂と破断が続けばそれは1919年(第一次世界大戦後の世界──筆者註)の欧州となる。これを避けるにはヨーロッパは自らの手で自らを作り出していかなければならない」──89年末、国民に発せられたこのミッテランの言葉は、1992年のEU誕生として実現していくことになる。
初の女性首相、クレッソン
92年までに域内市場完成を目標とする単一欧州議定書(SEA)が1986年に批准され、各国では規制改革や産業再編が急ピッチで進められていた。フランスも例外ではなかった。その任を担ったのはロカールに代わって任命された初の女性首相、エディット・クレッソンだった。
EU誕生への布石と国民投票
とりわけ日本では経済的側面から語られることの多かった当時の欧州統合だが、少なくとも欧州大陸諸国にとっては、統合は飽くまでも政治的プロジェクトとして捉えられるものだった。フランスにとって統合は、先述したドイツ問題解決の手段であると同時に、平和や豊かさなど、一国では実現できない国益を実現する目的でもあった。
マーストリヒト条約に伴う憲法改正案は、上下院議員からなる合同議会(コングレ)で92年6月に批准されていたものの、ほぼ同時期にデンマークが国民投票で条約を否決するという、予想外の事態が生じた。ミッテランはこれをむしろ好機とみなし、憲法上の必然がないにもかかわらず、国民投票による条約批准を表明した。ドゴール大統領のように、大統領の政治方針を国民に追認させることで「デンマーク・ショック」の影響を払拭するだけでなく、保守陣営が欧州統合を巡って割れることを予期してのことだった。彼のマキャヴェッリ的な政治手法が遺憾なく発揮された瞬間だった。
湾岸戦争への対処
ミッテランが向き合わなければならなかったのは、欧州の問題だけではなかった。1990年8月には、サダム・フセイン率いるイラクによるクウェート侵略という、ポスト冷戦期の最初の戦争たる湾岸戦争が勃発した。 これまでもフランスと中東地域との関係は、介入と傍観がない交ぜとなる、常に矛盾をはらんだものだった。
旧ユーゴ紛争への「介入」
アメリカやEUの後押しもあって、フランスは「バダンテール委員会」のもと、旧ユーゴ諸国の承認条件を定める役割を担っており、住民投票を独立の条件としたこともあって、結果的に各地でのナショナリズムに火をつけてしまった。セルビア人に包囲された首都サラエヴォから、初代大統領イゼトベゴビッチの親書が哲学者アンリ゠レヴィを介してミッテランに手交された。
ルワンダ虐殺における「不作為」
世界に衝撃を与える人道危機は終わったわけではなかった。1994年4月からは「アフリカのスイス」と称されるルワンダで大虐殺が起きる。アフリカ中央に位置するルワンダとブルンジは、第二次世界大戦後に国連の託統治領としてベルギーが支配し、その後62年に両国は独立を果たした。ただし、独立後も多数派フツ族と少数派ツチ族との間の抗争が絶えず、「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を結成したツチ族は90年から隣国ウガンダを拠点に、本国政府への攻撃を繰り返していた。
ルワンダは独立後にフランスに接近、フランスも特に73年からのハビャリマナ大統領時代に経済・軍事面での主たる支援国となっていたこともあり、90年のRPF侵攻に際して、ベルギーとともに軍事作戦を展開した。現地には国連平和維持軍(PKO)「国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)」が派遣され、93年には停戦と民主化プロセスを含んだアルーシャ協定の実現へと漕ぎつけた。
現在でも、フランスが虐殺を止め切れなかったのは、政権が体制派に肩入れし過ぎており、介入が遅きに失したためだとの批判は根強い。このため、2021年3月、ルワンダ虐殺におけるフランスの責任を総括した1200ページにもわたる報告書が政府に提出された。歴史学者デュクレルがまとめた同報告書では、1990年からハビャリマナ政権によるツチ族抑圧が「ジェノサイド」に当たる可能性が指摘されていたにもかかわらず、フランスは独立以来の政権支持や軍事面での支援から、RPFを反政府の武装集団とだけみなして、注意を払ってこなかったと指摘された。もちろん、ミッテラン個人がジェノサイドに加担した事実はない。しかし、虐殺が起きた際に、指揮系統にはない大統領直属の特別参謀本部(EMP)の意向が強く反映されていたことや、92年7月まで大統領のアフリカ外交顧問を務めた長男ジャン゠クリストフの関与、フランスによるハビャリマナ政権側近に対する勲章授与など、体制維持にフランスが深くコミットしていたことから、ジェノサイドが起きる可能性を過小評価していたことは、ほぼ確実である。
ミッテラン外交の特徴
国を代表するシンクタンクであるフランス国際関係研究所の代表を長く務めたモンブリアルミッテラン外交の14年間を振り返り、その特徴が「現状維持」にあり、中東やアフリカでのフランスの失敗は確固とした戦略を持ち得なかったことに起因する、と総括している。これらの地域でフランスのプレゼンスがますます低下している事実は21世紀になってからも変わっていない。
イギリスやドイツなどと比べ、冷戦終結以降の軍事予算の減少幅が少なかったことや核抑止力の重視 (ただし91年には核実験モラトリアムを宣言)、アメリカとの距離感など、ミッテラン外交がドゴール主義を受け継ぐものだったとする指摘は少なくない。これは、アメリカに対する批判的まなざしの裏返しから、フランスの自主外交を評価する日本の識者にもみられる。しかし、時代と国際政治の構造の違いを除いても、両者には大きな差異がある。それは、軍人だったドゴール大統領が、フランス外交が独自に動的に展開できる空間を作ろうとしたのに対し、文人ミッテランは、むしろ状況変化に柔軟に対応しようとする、19世紀的な勢力均衡をイメージした静的な外交を心掛けたことだ。また、ドゴール大統領はアメリカを意識してソ連や中国との接近を試みたが、ミッテラン時代は対独関係が重視され、ここから84年にはワルシャワ条約機構軍に対する西ドィツ防衛を任とする緊急対応部隊(FAR)やさらに87年には独仏合同旅団が創設されている。外交安全保障でもミッテラン時代のフランスは、西ドイツをパートナーとすることが明示的に選択されたのだ。 大統領といえども、一国の外交方針を大きく変えるには困難が伴う。もしミッテラン外交にこれらの特徴を認めるのだとすれば、その是非はともかく、ミッテランの生きた時代が世界大戦と脱植民地化に彩られ、多くの国境線が引き直されて国家の庇護の外にある者たちが溢れかえり、その結果として新たなナショナリズムが生み出されてきたことに対して、彼自身が抱いていた本能的な恐怖と無関係ではないように思われる。
コアビタシオン再び
92年4月から政権を預けられたベレゴヴォワ首相は、早くも窮地に陥っていた。「妥協と交渉の政治家」と呼ばれた彼が政策課題として掲げたのは、失業対策、治安、そして政権周辺で頻発するようになった汚職の撲滅だった。80年代終わりに若干持ち直した経済は再びゼロ成長へと落ち込み、ここから若年層を中心に、失業率が上昇に転じ、92年には危険水域の10%を超えるようになっていた。統一後のドイツは財政拡張を余儀なくされてインフレを経験、通貨統合を見越した投機筋の攻撃を受けて各国で通貨危機が生じるなど、欧州はその経済統合に伴うダメージを早くも経験していた。これに港湾労働者や農家を中心としたストが追い打ちをかけた。 この時に首相自らが汚職疑惑に見舞われるとは、誰しもが予想していなかったに違いない。
下院選の敗北から1ヵ月後、地元労組の表敬訪問を受けた日の午後、彼は水路沿いを散歩するといって密かに持ち出したボディガードの拳銃で自分の頭を撃ち抜いた。遺書は残されていなかったもののペシネー事件での関与疑惑やプラからの融資など、自身を巡るスキャンダルが社会党の下野につながったことを悔やんでのことだった。ミッテランは、事件から4日後に執り行われた葬儀の場で「個人の尊厳と自由を保障する我々共和国の基礎を無視する者たちが、1人の人間の名誉と人生を大どもに追いやった」と、スキャンダル報道を非難した。 さらに、その約1年後には、80年代に大統領補佐官を務め、娘マザリーヌの後見人でもあったフランソワ・ド・グロスーブルが、エリゼ宮で自殺する事件が起きる。大統領府の中での自身の地位低下や老化に悩んでいたとされる。権力を肥大化させた晩年のミッテランの周辺には、フランス政治史家の渡邊啓貴が記すように「死臭が漂った」。
政治的遺言
95年5月の退任を控え、病状も日に日に悪化していた。閣議や外の出迎え、各地での演説などをこなしつつも、公務は夜8時に終えなければならなかった。激痛から執務室で長椅子に横たわることも多くなり、医師2名が24時間態勢で健康を支えた。年末まで命が持たないとの診断から、94年7月には遅らせてきた二度目のがん手術に踏み切り、秋からは疼痛管理専門の医者も加わり、モルヒネの投与が決断された。
95年1月17日、EU議長国首脳として欧州議会で演説したミッテランは、弱々しくみえながらも、終盤は演台に寄り掛かって1時間近い演説を行った。ここで大統領は、一層のEU強化とその社会政策の充実、そして市民の支持を得ることの大切さを力強く訴えた。そして、最後に「個人的な話だが」と前置きして過去の経験を語り、次のように締めくくった。
私は、第一次世界大戦中に生まれ、第二次世界大戦を戦うという周然からなる人生を歩んだ。つまり、幼少時代から、死人を悼み、昨日の敵を恨み、場合によっては憎しみに引き裂かれた家族がいることを知ることになった。(略)そのような憎しみではなく、血塗られ、引き裂かれつつも、44–45年からの和解と平和に基づいた輝かしい未来を構想するような大胆さこそが伝達されなければならない。(略)これは私たちの歴史を克服するのに等しいがゆえに、こうした願いは成就されないかもしれない。しかし克服しなければ、ナショナリズムに負けることになる。そう、紳士淑女の皆さん、ナショナリズムとは戦争のことなのです。そして戦争は過去のものとなったのではなく、未来にあるかもしれず、そして議員の皆さんこそが平和と安全の担い手でなければならないのです。
今日でも、欧州統合の歴史に残る名演説として記憶されているだけでなく、ミッテランという20世紀を生きた人物による政治的遺言でもあった。議場はスタンディングオベーションでもってこの遺言を讃えた。
終章 フランスの歴史と政治──ミッテランが遺したもの
95年4月23日の大統領選第一回投票は、ミッテランが睨んだ通り、保守陣営で現職のバラデュール首相とシラク元首相による立候補をみたため、ポスト・ミッテランを窺うジョスパン元数育相が第一回投票で首位に立った。しかし、保守票の積みあがる5月7日の決選投票で社会党候補は敗退することになった。 その10日後、ミッテランは自身が14年前に受け取った大統領職のバトンを長年の政敵だったジャック・シラクに渡すことになった。大統領からは、核ミサイル発射の暗号と再就職の斡旋対象となる大統領府スタッフたちのリストが手交された。「共和国的君主」と呼ばれる、フランス共和国大統領の権力の在り処を象徴するエピソードである。
死に際では、話題になったエピソードもあった。 大晦日、ミッテランは好物の牡蠣5個に加えて、オルトラン(ウズラの一種)二羽を平らげたという複数の証言が流出したからだ。オルトランを食す時は、狩猟禁止鳥であることからナプキンを被るという儀式めいた慣習が残っており、家族らその瞬間を楽しんだという。死の直前、臨終にある者へのカトリックの儀式である「病者の塗油」を受けたのと同様、フランスの伝統にこだわった、彼らしい最後の晩餐でもあった。
ミッテランと歴史
半世紀以上にわたったミッテランの長い政治活動は、大きく三つのステージに分けることができる。 第一は、1946年に始まる第四共和制で、それまでのレジスタンス活動組織化の手腕が買われ、もっとも若い閣僚として将来を嘱望された時代である。しかし、その輝かしいキャリアは、58年の第四共和制崩壊とともに崩れ去ることになった。 第二は、長い時間をかけた復活の時代である。60年代は共産党を除いた非ドゴール派の結節点となり、70年代には共産党と組むことで、瀕死の状態にあった社会党を復権させ、これが1981年の23年ぶりの左派政権誕生へと結実する。 最後のは、81年から95年までの二期14年にもわたる、国家元首としてのステージである。大統領となったミッテランは、70年代から続いた社共路線を早々に捨て去り、社会主義を代替するものとして欧州統合というプロジェクトを希求していった。そして、ドゴール流の独自外交と欧米同盟との間の機敏なバランスを維持しつつ、フランスにとっての歴史的な課題であったドイツ問題を、ドイツ統一と欧州統合とを結びつけることで解決に導いた。
これらの異なる三つのステージに共通するものがあるとすれば、それは何であろうか。 世界広しといえども、フランスは数多くの政治体制、ひいては統治原理の変転を経験している数少ない大国だ。大革命のあった1789年から数えても、その後のナポレオンによる帝政(1804–14)、復古王政(1814–30)、七月王政 (1830–48)、第二共和制(1848–52)、第二帝政(1852–70)、パリ・コミューン(1871)、第三共和制(1875–1940)、フランス国(ヴィシー政権、1940–44年)、第四共和制(1946–58)、第五共和制(1958–現在)と、目まぐるしく変わる体制と統治原理の転換を経験してきたからだ。 ミッテランがその政治家としてのキャリアを本格的にスタートさせるのは戦後のことだが、その過程をよく観察すれば、オーソドックスなイメージと異なり、時々の時代の先端、より正確にいえば、体制転換とともに誕生した主流派の中のマージナル(周辺)な位置にいたことがわかる。1940年にはペタン主義者、43年にはジロー主義者、54年にはマンデス主義者、56年にはモレ主義者、65年には共和(議会)主義左派、74年には社会主義者と目されたように、である。
ミッテランが政界の風見鶏と呼ばれたことも事実である。しかし、それは、フランスの歴史が持つ、屈折した複雑さに由来する。政治体制が変わっても、前の時代の痕跡は消え去らない。 ミッテラン伝も手掛けた著名ジャーナリストのジズベールは、ミッテランは「ペタン主義者でありレジスタンスの闘士であり、社会主義者であり自由主義者であり、カトリック信者であり世俗主義者であり、中央集権主義者であり田舎者であり、権威主義的であり寛容であることを繰り返すと同時に、その両方に属した。つまり、彼はフランスという複雑さの体現者であった」と、いみじくも記した。
ミッテランと政治
では、ミッテランは少年時代から志していた文人としての道を諦め、なぜ政治への道に転じたのか。そのキーワードは「自由」にある。ここでいう自由とは、望む存在と化すための自己の人格を統治するという、本来的な意味において、である。「彼は、私たちと同じように地方出身のカトリックの子だった。そして私たちと同じように、ギュイエンヌとサントンジュ(ともに南西部地方)に広がる丘陵と森を前にしてパリへの道を夢見て、歩んだ。彼は『自分の人生を支配しようと拳を握る』というバレス的少年だったのである、そのために全てを捧げた」──これは、青年期に後見人を務めたノーベル文学賞作家フランソワ・モーリアックによるミッテラン評だ。
「社会主義とは、自らの国であろうが、他国であろうが、専制の廃止のことである」とはジョージ・オーウェルの言葉だが、ミッテランも70年代に目指したのは、それまでマルクス゠レーニン主義に彩られていた社会主義を「その当然の目標」である「新たな経済社会関係のもとでの自由」によって刷新したかったからだとしている。フランス革命200周年を祝う1989年のインタビューでは、フィヒテやゲーテ、カントなどを引きながら、「政治とは人間との間の絆を深め、運命共同体としての感覚を強めることを使命とするもの」と述べている。
答えを聴いて、司会者ピヴォはミッテランの著作を読んでの人物評をスタジオで披露した。 外見的には確言に満ちて妥協を知らず、その運命と理想に忠実、非常に魅惑的な人間だけれども、その内面に不満を抱え、瞑想的で、感傷的で、夢見がちな人物」──ミッテランはこれに応えて「よくいる人物ではないか。多くの人がこの描写に納得するはず」と返した。しかし「よくいる人物」だからこそ、政治の世界では閃光を放つ存在となることもあるのだ。
ミッテラン時代のフランス
ミッテランが共和国大統領を務めた80年代初頭から90年代半ばは、冷戦構造の崩壊をピークに、大きな政治的・社会的変動が生じた時代でもあった。
アメリカの政治力と日本の経済力とに挟まれた欧州が、ミッテランによるイニシアティブでもって欧州統合を深化させたことは必然だった。国連の安全保障常任理事国であると同時に核保有国であるフランスでも、植民地を放棄し、経済的に衰退し、ドイツ統一がなされたことで、もはや世界のアジェンダを統御できない状況に陥っていたためである。それゆえ、ミッテラン時代には、フランスは世界ではなくヨーロッパを足場にその外交を組み立て、その盟主となることで、世界政治での存在感を発揮する方針が確定的になった。
フランスの軌跡をこのように捉えた時、ミッテランはフランスの地政学的・戦略的な転換点を象徴する大統領として位置づけられる。すでにドゴールのように「偉大さ」を体現できる大統領ではなかったにせよ、現在のように、しばしばドイツや他国に追従することを余儀なくされる国家元首でもなかったからだ。どの時代も、自国の衰退を喜ぶ国民はいない。しかし「政治権力とは自らが生み出す幻想に基づくのではなく、錯覚かもしれないがそれによって具体化される希望に基づく」と断定するミッテランは、「偉大さ」に代わる欧州統合という希望を示すことで、困難な転換を成し遂げることができたのである。
そして、人間ミッテラン
哲学者ウォルツァーは、サルトルの戯曲にヒントを得た論考「政治行為と「汚れた手」という問題」(1973年)で、政治行為には必然的に非道徳性がつきまとう、と論じている。政治は、他人のために何かを為そうとする行為だが、自分が権力を振るって他人を操る行為である限り、非道徳なものでもあるからだ。他方で、自身の良心に忠実であろうとして、汚い手段を回避する政治家は、本来果たすべき責任を果たせないかもしれない。このジレンマは、『ハムレット』劇中にある「優しくあるためには残酷でなければならない」というセリフに象徴される。
このジレンマに対処するには、伝統的に3つの立場があったと、ウォルツァーは指摘する。ひとつは、マキャヴェッリによる『君主論』の立場で、政治のとる手段が残酷なものであっても、目的が善であれば、それは正当化されるというものだ。2番目は、ウェーバーの『職業としての政治』の立場で、彼は政治には残酷さを許容する「悪魔と取引」があり得るとした上で、政治家はそうした苦悩に耐え続けなければならないと説いた。 ウォルツァー自身は、これらの立場の正当性を認めつつ、第三の立場たるカミュの『正義の人々』における政治を支持する。帝政ロシアでのテロ行為を描く戯曲『正義の人々』で展開される政治行為とは、自分が善を為そうとして結果的に犯したかもしれない罪を公にすることで、その最終的な判断を他人に委ねるというものだ。
政治家の行為は、それが公権力の使用である限り、法的に裁き切ることはできない。それゆえマキャヴェッリは、権力の道徳的利用を薦め、それゆえウェーバーは苦悩せよ、と説いた。しかし、カミュの立場は違う政治家は、場合によっては残酷無比な権力を行使せざるを得ない。それゆえ、その審判は社会に委ねられることになる、とするのである。その審判を粛々と受け入れることこそが政治家に求められる道徳なのだ、と。ウォルツァーは、マキャヴェッリの道徳律を新古典派的、ウェーバーのそれをプロテスタント的、そしてカミュのそれをカトリック的と称している。そして「人のことは死後にしか裁けない」と述べたのはいみじくもミッテランだった。
『存在の耐えられない軽さ』で有名な作家ミラン・クンデラは、ミッテランが「現代のヨーロッパの政治家すべての中でおそらくその心中で不滅にもっとも大きな場所を与えている政治家」だと記している。どのような人々に対しても、彼らの審判と判断に身を任せ、それを尊重するという政治家の責務と義務を、ミッテランほど貫徹しようとした政治家はいないだろう。それはまた、自身を不滅の存在にするための唯一の手段でもあったからだ。
ミッテランは、任期の終わりを見据えて、ヴィシー時代の経験を自ら説明するインタビュー番組で、ジャーナリストに「あの世へと渡る時、神から何と言って迎えられたいか」と問われ、次のように答えた。「『まあ、総体として君がやったことはマイナスよりプラスだったろう。他者を助け、愛そうとしたから。もっと助け、もっと愛せたかもしれないから、成功したとは言わないが』と言われたい。そんな公平な判断が下されることを望む」、と。
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あとがき
本書が目指すところは3つあった。ひとつは当然ながら、フランスの一時代を築いたフランソワ・ミッテランという人物がいかなる存在であったのかを、過不足なく伝えること。2つ目は、彼の存在と、時代によって異なる力学のもとに置かれるフランスの政治と社会の相互作用を描くこと。最後には、この2つを通じて、フランスという国の20世紀後半の足跡を辿るとともに、政治という、不可思議な営みの本質を探ることである。さらに付け加えるとすれば、必ずしもミッテランやフランスに関心がなくとも、1人の政治家の冒険奇譚、そしてある人間の生涯の物語としても、面白く読めるよう心掛けたつもりである。著者のこのやや野心的に過ぎる試みがどこまで成功したのかは、読者の判断に委ねるしかない。
私事になるが、本書は亡父・𠮷田康彦に捧げたいと思う。中公新書にある彼の『国連広報官』(1991年)の617頁に出てくる「次男」とは筆者のことで、私がミッテランという人物と邂逅したのも父のおかげである。
写真出典
主要参考文献
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剣持久木『記憶の中のファシズム:「火の十字団」とフランス現代史』講談社選書メチエ,2008年
コリングウッド,R.G.(小松茂夫・三浦後訳)『歴史の観念』紀伊國屋書店,2002年
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ジスペール,フランツ゠オリヴィエ (プジョー友子訳)『神なき死:ミッテラン、最後の日々』春秋社,1999年
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高橋進『歴史としてのドイツ統一:指導者たちはどう動いたか』岩波書店,1999年
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田中素香(編)『EMS:欧州通貨制度:欧州通貨統合の焦点』有斐閣,1996年
マルグリット・デュラス,フランソワ・ミッテラン(坂本佳子訳)『デュラス×ミッテラン対談集「パリ6区デュパン街の郵便局」』未来社,2020年
ネイ,カトリーヌ(村田晃治訳)『ミッテラン─フランス 1981–88』世界思想社,1992年
バダンテール,ロベール(藤田真利子訳)『死刑執行』新潮社,1996年
マーシュ,デイヴィッド(田村勝省訳)『ユーロ:統一通貨誕生への道のり、その歴史的・政治的背景と展望』一灯舎, 2011年
レモン,ルネ(大嶋厚,中村督,吉田徹訳)『フランスの右派:1815–1981』岩波書店,2025年
渡邊啓貴『フランス現代史:英雄の時代から保革共存へ』中公新書,1998年
吉田徹「書評 ドイツ統一とフランス外交──欧州統合は何故進んだのか」『北大法学論集』57卷第6号,2007年
吉田徹『ミッテラン社会党の転換:社会主義から欧州統合へ』法政大学出版局,2008年
