アイスランド版『リーマン・ショック・コンフィデンシャル』,といった感じ。これまた邦題がちょっとミスリーディングで──原題は『Why Iceland : How One of the World's Smallest Countries Became the Meltdown's Biggest Casualty』──そのせいもあって内容が頭に入ってきづらい。しっかり描かれているんですけどね。
〈訳者解題〉がよくまとまっている。
- カバーストーリー 一夜のうちに消滅した〈帝国〉についての叙事詩(サガ)
- 序章 炭鉱のカナリア
- 第1章 アイスランドの謎
- 第2章 バンキング・システムの誕生
- 第3章 バンキング帝国への変貌
- 第4章 ガイザー(間歇泉)・クライシス
- 第5章 バブルを生きる
- 第6章 地獄への道
- 第7章 国家破綻の現実
- 第8章 ロスト・イン・アイスランド
- 終章 テムズ川沿いのレイキャビク
- 訳者解題 グローバル経済の実験室──小国経済の明と暗
- 用語解説
- 著書・訳者紹介
カバーストーリー 一夜のうちに消滅した〈帝国〉についての叙事詩(サガ)
2008年10月、アイスランドは壊滅的な金融崩壊の途方もない激震地となった。 わずか数年のうちに、ヨーロッパの片隅にあるちっぽけな島国が、地球上の他のどの国にも対抗できる金融帝国を築き上げた。そして、2008年10月のたった1週間のうちに国全体が崩壊した。イギリスの投資家だけでも破綻によって80億ポンドの損失をこうむったといわれている。だが、それは氷山の一角にすぎない。危機の影響は地球中をめぐり続けている。
序章 炭鉱のカナリア
国際的な銀行は活発に活動し、うまくいっているときには国際的であるが、それが困難に陥るや否や国内的になるという古い格言がバンキング業界にはある。この古いことわざは、2008年のアイスランドのケースにおいてまさに真実と聞こえる。
そのうえ、アイスランドの銀行が助けるには大きすぎただけでなく、国としてのアイスランドは助けるには小さすぎた。アイスランドはEU(欧州連合)に参加しておらず、そのバンキング・システムの失敗は「感染性」の恐威を何ら誘発していなかったので、他の主要中央銀行はどこも、アイスランドの銀行救済措置案に対して貸付をしようとはしなかった。政府がこの島にある三つの銀行のうちの一つを国有化しようとしたとき、投資家たちが自分の資金を取り戻そうとして殺到し、一週間のうちにアイスランドの金融システムは流動性を奪い去られた。アイスランドはおそらく、国際市場の借頼をかくも完全に失った最初のトリプルA格付の国であり、その破綻した銀行は今や、デフォルト(償務不履行)に陥った歴史上最初のA格付企業という怪しげな名声を得ている。
金融危機にはつねに政治危機がついてくるものであるというのも、古くからの格言であり、それはまさにアイスランドに当てはまる。バンキング破綻の直後、2、3カ月後には街頭での抗議が始まり、これは2009年2月の中道右派政権の崩壊へと導いた。
*序章として収録した本稿「炭鉱のカナリア」は、日本語版刊行にあたって、著者が日本の読者に向けたメッセージとして新たに書き下ろしたものです。
第1章 アイスランドの謎
王からの最後通牒
ノルウェーの偉大な武人王オーラヴ・トリュッグヴァソンは、キリスト教に改宗するか、彼の激怒に直面するか、そのいずれかを迫る最後通をこの若い国に突きつけた。
この王の命──あるいは、いかなる王の命でも──に従うことは、誕生したばかりの国にはできそうになかった。この国は、統一ノルウェー王国が紀元870~900年頃にできたときに、相税と圧政から逃れようとしたノルウェー農民と族長が定住した国である。
アイスランド・ドリーム
アイスランドは、ヨーロッパにおいて最後に発見された国であった。それは8世紀中葉(バイキング時代の絶頂期)に、船が悪天候で吹き飛ばされコースを外れたとき、たまたま発見されたのである。そこには利用できるものはほとんどなく、征服する者はいなかった。島に住む唯一の哺乳動物は北極ギツネ(アーティック・フォックス)であった。
系図上の証拠によると、アイスランドには北大西洋のあらゆる地域からやって来た北方の男女が移住した。とりわけこの国の男系の祖先の約90パーセントはノルウェー人である一方、女系の祖先の60パーセントないし70パーセントは元はケルト民族である。若干の女性は奴隷として到着したが、むしろ多くの場合、その結婚相手は、「その国の人のように」振る舞って、キリスト教を含めイギリス諸島から文化を吸収しようとしていたバイキングであった。奴隷制は、その国の異なった種族が混血するに従い、まもなく廃止された。
アイスランドの起源とアメリカ合衆国のそれとの間には奇妙な類似性がある。両国は移民の各種のグループによって設立されたが、ある者は圧政を逃れ、他の者は単によりよい生活を求めてやって来た一方、少なからずの者が奴隷として連れてこられた。移住して50年の間に、アイスランド人は今日では典型的に共和国と言ってよいものを確立した。
アイスランド人にとっては、大昔の彼らの国の創始者は、過去のものであっても決して忘れられることはない。彼らの多くは名前を知られており、現在のアイスランド人はすべて、移民当初の時代に遡る家系の記録と系図をつうじて、その創立者たちのところまで彼らの血統をたどることができる。(…) アイスランドは大西洋を動き回り、地中海にまで到達した北方の族長たちという国際人(コスモポリタン)が創出した世界であった。(…) 他方では、彼らは亡命者でもあり、どのような外国の権威に対しても疑い深かった。この意味ではアイスランドは隠れ場所としてできた国である。
アイスランド・ドリームは今日また、たとえ敵がどんなに大きくみえようとも、30万人の国民がどんなスポーツにおいても他国を打ち負かせるという、執拗で時に正気を失ったともいえる確が目立つ国民性を特徴づける。
イギリス時代
ノルウェー王国は、14世紀にはデンマークと新しい連合を形成するようなところまで弱体化した。それにともない、アイスラントは今やデンマークの利権下にあった。 しかしながら、デンマーク人たちは、最も強く安定した力をもつヨーロッパ列強とはほど遠いにもかかわらず、アイスランドに関心をもつ他の国との間で数十年間もめることになった。イギリスの帆船が1412年にアイスランドの沿岸に初めて現れ、アイスランドの孤立志向を突然終わらせた。絶大な海軍勢力として大西洋を支配し始めていたイギリス人は、漁業面の利点を利用し、また、火薬に必要な硫黄の貿易を切望していた。
独占は2世紀以上続き、アイスランドに貧困といっそうの孤立を強いた。他の外国人との接触に対して厳しい処罰が行われた。デンマーク商人は今や、豊富な魚類供給の特権的受益者となった。 彼らは王によって競売にかけられた貿易許可のもとでヨーロッパ市場よりはるかに低い国家の強制価格で購入した。
アイスランド人は極端なまでに独立独行で、内向的かつ頑固であり、外国人の関心には疑い深い。彼らの国は米国の多くの小都市よりも少ない人口しかないことがしばしば注目されるが、彼らはほとんどの第三者が認識しているよりもはるかにュニークな言い方で考える傾向がある。彼ら自身の精神世界のなかに住むことで、アイスランド人は著しく長い期間にわたって外部の影響とトレンドに抗するとともに、ようやく新しいコンセンサスがいったん定着すると、ほとんど即時に新しいパラダイムへと移行できるのである。
ヨーロッパ世界への再参入
ほとんど500年の統治の後に、アイスランド人は、この連合のなかでデンマーク人によって対等のパートナーシップを与えられることなど果たしてあるだろうかと疑い始めるようになった。一方、デンマーク人は、彼らの信任が横柄かつ旧態依然で、感謝の念がなく、交渉を受けつけないものであると考えた。両国は19世紀のほとんどを自治に関する議論で費やし、その間、アイスランドには経済発展が訪れることはほとんどなかった。1874年にようやくデンマーク王は、アルシングに立法権と財政権の両方を与える国体をアイスランドに容認した〔この近代的な議会も、以後「アルシング」と呼ばれる〕。近代的なものがついにこの島にしのび寄ってきた。
終戦後、冷戦が姿を現すにしたがって、アイスランドの戦利品には、西側の新しい友人と重要な戦略的地位が含まれることになる。1951年、この国はNATOの創立メンバーとなり、米国がこの島に海軍基地を設置することを認めた。アイスランドはまた、魚を米国市場へ送り始め、そのうちに事実上、米国の保護州となり、米国からの財政的、政治的支援に頼ることができた。この関係のよい例は、アイスランド人が米国の支援を受けてイギリスのトレーラーを島の海岸線から20 マイル境界線を超えて追い出した1972~73年の対イギリス・タラ戦争の間にみることができる。
近代社会の形成
アイスランドはケンタッキー州とほぼ同じ大きさである。島の大半は不毛の地形をもつ高原からなっている。居住地はつねに、メキシコ湾流の暖かさが享受できる沿岸地域に限られてきた(レイキャビクの気候はよく、冷夏と暖冬といわれ、平均気温は7月に11度、1月にマイナス1度である)。現代のアイスランド経済は米国経済のおよそ1000分の1の規模である。国際貿易にもとづいて築かれた近代成長により、アイスランドは、ひと握りの商品類を輸出し、ほとんどの必需品を輸入するという、完全に専門化された経済の典型的なケースとなった。乳製品、魚、食肉を除き、国内で消費されるほとんどすべてのものが輸入される。ほんの少しの鉄をも一度に鍛造することのできない小規模な労働力によってわずかな輸出財しか生産できない一方で、小さな市場は利用できる規模の経済性を制限する。したがって、すべての小規模経済と同様、アイスランドは国際貿易において専門化せざるをえない。
電力生産も過熱状態に転じた。アイスランドは内陸部の高地から流れる氷河と地熱という再生可能なエネルギーの二つの莫大な源泉に恵まれている。この源泉は両方とも豊富な電力を起こすが、いうまでもなく、島の孤立は他の国へのこのエネルギーの輸出を阻んでいる。その代わり、電力集約的な産業がアイスランドで投資するよう誘致されており、全国の発竃所にとって頼りがいのある顧客となった。発展のタイミングがもっとよかったなら、漁業によって提供された経済的前進が電カ生産でうまく進んだかもしれない。実際には、アイスランドの電力生産が劇的に増大したのは、最初のアルミニウム製錬所が建設された1960年代末以降であった。しかしながら、20世紀末にはアイスランドは全世界のアルミニウム生産の約4パーセントを占めるに至った。
長期間にわたって変化に抵抗してきたアイスランドの人々は、20世紀末にはヨーロッパの革新と成功の最前線へと飛び出し、繁栄の果実を享受していた。経済は減税、自由市場至上主義、国際化をともないつつ、不況と停滞を克服した。国民はとくに民間部門において若々しく勤勉である。 政府は小さく、まもなく債務がなくなるところであった。民間基金の年金は安心をもたらした。豊富な自然資源は所得の潜在力と独立独行を育んだ。アイスランドの用力は、その最新の非常に大胆不敵な輸出品である国際金融部門の急速な構築を用意した。
第2章 バンキング・システムの誕生
国家統制下のバンキング・システム
1930年2月2日、アイスランド議会アルシング〔アイスランド議会は現代においてもしばしばアルシングの名で呼ばれる]は、国の唯一の民間銀行の運命を決定する緊急の夜間議会を招集した。困難の最もはっきりした徴候は銀行からカネを引き出そうとする預金者の長い列にあったが、危機はまた、制度への言頼を失い、今や新しい信用の供与を拒絶している国際的な債権者によって悪化させられつつあった。銀行の経営陣は、政府がその預金と対外債務のすべてを保証してくれることを懇願していた。さもなければ、銀行は翌日には閉鎖の運命にあり、デフォルト(債務不履行)に陥ることになっていた。
止めどなく悪いニュースが続くにもかかわらず、アルシングは行動を渋っていた。この銀行はアイスランド・バンキ(アイスランド銀行)という名をもっていたが、全面的に外国人所有の企業であった。アイスランドのための法貨を発行する権限を与えられるという条件で、世紀転換期〔1900年〕にデンマーク人の投資家たちが銀行の設立を申し出たことにより、外部世界への金融的つながりが実質上、アイスランドで初めてできたのである。すなわち、彼らは営利的関心をもって中央銀行を設立していた。アイスランドがヨーロッパの片隅に位置しており、外国の投資を引きつけるのは困難だということを長く訴えてきた政府は、この計画を受け入れたが、わずか30年後の今、大不況の始まりがアイスランド・バンキを破滅させた。
新しいバンキング構造の誕生
アイスランドは、1918年にデンマークから分離独立し、借用の世界であまり長い歴史をもたない主権国家になったとき、外国の金融市場へのアクセスのほとんどを失った。アイスランド・バンキがいったん国有化されると、ロンドンのハンブロス銀行をつうじての狭隘な対外資金調達へのアクセスだけが残った。大不況が始まるにともなって、ランズ・バンキは、輸出収入が急減するなかで過大評価された通貨を支えるうえで、1920年にアイスランド・バンキが陥ったのとまさに同じ困難な状況にあった。このとき、デンマークからの援助は求められず、国際的な金融界への門戸は閉ざされたままであった。1931年、ランズ・バンキは、即時に立法化され、1994年まで効力のある資本統制をアルシングに請願した。
アイスランドのバンキング展開
それぞれの金融システムの特徴と発展の速さに違いはあるものの、バンキングの発展には普遍的な論理がある。その最終的な帰結は経路依存性を有するがゆえに、バンキング・システムを評価する場合には歴史が問題となる。アイスランドのケースでは、そのバンキング部門がどのようにして他の西側諸国のそれと根本的に異なる仕方で発展したのかを理解するうえで、アイスランド・バンキの火付け役としての参入と消滅が手がかりとなる。
第3章 バンキング帝国への変貌
スキー・リゾートでの途方もない夢
1999年3月13日、アイスランドの小さな証券会社の従業員120人全員が、彼らのバラ色の未来図を描くために、レイキャビクに近いスキー・リゾートに集まった。ビジネスはじつにうまくいっていた。会社は一貫して40パーセントの対自己資本利益率と、新興のアイスランド株式市場における30ないし40パーセントの市場シェアを維持していた。投資銀行のライセンスを1997年に得ていたので、会社はその部門でもまた国の最前線へと躍進していた。その日、誰かが「われわれはアイスランドのゴールドマン・サックスになりつつある」とジョークを言ったが、米国の巨人への言及は皮肉にも、最近の到達点について間接的に確認することにもなった
魚から金融へ
20世紀初頭に機械化漁業が始動して以来、その獅子の分け前のおかげでアイスランドはほとんど1世紀にわたって年率4パーセントの経済成長を達成してきた。国際的に活動する大企業は、新たに独立した国にとってとくに必要な規模の経済性をもたらし、さまざまなサポート機能に特化した他のビジネスの発展を助けた。そのようなものとして、水産部門は魚を陸揚げするということだけではなく、他の価値創造にも多くの機会を提供した。アイスランド企業は漁獲から消費までの価値連鎖の各段階で、とりわけマーケティングと技術革新において抜きん出ていたと言えよう。彼らはまた、高級品志向の消費者をターゲットとすることによって漁獲の利潤マージンを高めた。
文化的な類似性もまた、この関係に役立った。ドイツ人はアイスランドに好意をもっており、つねにその景観、文化および文学に心からの関心を示してきた。ドイツ人にとっては、古風なアイスランド語は古いドイツ語の遺物のようにみえ、彼らは、小国の国民の鼻にかける態度にいらいらするよりも、むしろそれに魅了される傾向があった。ドイツ人たちはまた、多くの外国の旅行者に知られる前からアイスランドを観光旅行に組み入れており、また、20世紀のアイスランドの作家に対して大きな読者層を提供した。アイスランドの銀行としては、ドイツで実際のビジネスを多くしたわけでは決してない。それにもかかわらず、20世紀の二つの世界戦争から隔離されたことで彼らとドイツ人の関係は良好であった。
アイスランドのバンキング業界
1990年代初頭のアイスランドでは、4社のリテール・バンキング会社が営業していた。ブナダル・バンキ(農業銀行)とランズ・バンキは国有銀行であり、一社は民間銀行のアイスランド・バンキであった。そして、貯蓄・貸付基金のネットワークが一つあった。1998年に政府はいくつかの国有の投資基金を結合し、産業向け投資銀行(フジャルフェスティンガ・バンキ・アトビンヌリフシンス)の頭文字をとってFBAと呼ばれる法人向け銀行を設立した。その時点では、アイスランドの金融システムのバンキング向け資産はあわせて国のGDPの約97パーセント、株主持ち分は7.3パーセントであった。
ユニバーサルへの飛躍
アイスランドの法律は、米国のグラス・スティーガル法の精神を受けて投資バンキングをリテール・バンキングとは別のものとしてきた。しかし、EEA(欧州経済領域)に加入すると、この国もまた、同じ組織が投資バンキングに従事する一方でリテール預金を受け入れることを基本的に認めるEUのバンキング法制を採用した。1990年代が終わる頃になって、マージンがより少なくなる一方で、コマーシャル・バンキングの競争がとくに対会社レベルでひどくなってきたことが明確となった。どの銀行も投資バンキング活動を検討し、ユニバーサル銀行に転換する準備を整えつつあった。
カウプシングの浮上
カウプシング──その名前はアイスランド語でマーケット・プレイス(市場)を意味する──は、1982年に8人の構成員によって設立された。それは資産担保付きの負債を仲介することで始まり、構成員たちは、例えば第二抵当権を得たり、あるいは手形融資をする一方で、国立銀行の公式の貸付格付に抜け道をつくろうとした。負債は、しばしば大割引で第三者に販売された。
海外での拡大の好循環
1999年3月のスキー・リゾートでのエイナーソンのスピーチは、カウプシングの根本的なりストラクチャリングを引き起こした。同行は、アイスランド国内ベースでのかなり細身の仲介・資産管理事業から、買収をつうじて大規模なバランスシートを構築する機関に変容した。目標はまさしく「北欧の主導的投資銀行」になることであった。
バンキング・システムの民営化
アイスランド政府は2002年、ついにランズ・バンキとブナダル・バンキの政府保有株式の買い付けを求める決定をした。FBAは2000年にアイスランド・バンキに売却されていた。これは、所有権の多様性という当初の目標の突然の方向転換であった。そして、より重要なことは、二つの銀行における支配権がレバレッジを導入した持株会社に売却され、そのことによって一つの先例をつけたことであった。そのときから、銀行とそのオーナーたちの間の共生(あるいは近親相姦) 関係がこの国の金融市場を特徴づけることになった。
ロンドン・コーリング
スカンジナビア諸国の金融市場はあまり統合されておらず、強い国内偏向を示していた。デンマークの投資家はスウェーデンの株式を買わないし、その逆もない。スカンジナビアにおける投資バンキングにとっての実質的な金融センターはロンドンである。北欧諸国を押さえたい銀行は、いずれもイギリスに拠点を必要とした。カウプシングは2003年以来、イギリスで組織的に営業を立ち上げていた。2005年、カウプシングはロンドンを拠点とする小さな投資銀行であるS&F(シンガー&フリードランダー)を買収した。S&Fは1907年に商業銀行として設立されたが、おそらく最も知られているのは、1950年代に通貨トレーダーとしてジョージ・ソロスを雇ったことであろう。S&Fは小規模ビジネスと高額の純資産をもつ個人に向けた多目的バンキングに集中していたが、資産管理と資産金融に鋭意従事していた。
第4章 ガイザー(間歇泉)・クライシス
炭鉱のカナリア
2006年3月30日早朝、約30人のクレジット・インベスター(債券投資家)がレイキャビクのカウプシング本社を訪問した。このグループは、アイスランドの金融社会のリーダーに会うことを切望していた個人のためのロードショー〔巡回キャンペーン〕を手配したバークレイズ・キャピタルによって招かれた。 友好的に始まった会合はまもなく荒れたものになった。投資家たちはカウプシングの経営陣の話を聞くのにうんざりし、CEOのシグルドソンは敵意ある質問と大声の妨害にさらされた。「これは銀行ではなく、ヘッジファンドだ!」と一人の紳士が叫んだ。
いかにして経済を過熱させたか
アイスランド経済にとってのトラブルは、それが資本集約的な電力プロジェクト、金融政策の緩和、バンキング・システムの民営化という三重の刺激策に打って出た2003年初頭から避けがたいものであった。その各要因はそれぞれ、それだけで経済を過熱させるのに十分であった。それらを合わせると、それは経済をたちまち沸騰点へともたらした。2005年末には利子率は倍以上に上り、10.75パーセントとなった。ICEX(アイスランド株式市場)は2003年夏以降、ほとんど4倍になった。レイキャビクの住宅価格は同じ期間に倍になった。
ヘッジファンドの攻撃
ヘッジファンドは狼のように群になって獲物を追い求める。より小さな市場では、とりわけ数の力が彼らのトレーディング戦略の成功のチャンスを増大させる。相対的にちっぽけな経済と、国の規模に比べて大きいとしても国際的な相手役との関係では小さい銀行をもってすれば、与しやすい獲物と考えられても驚くべきことではない。何か悪いニュースがあると、その金融システムは、たとえひと握りであるとしてもヘッジファンドからの攻撃を受けやすいということは十分に言えた。 2006年のISKのいっせいのショート(空売り)状態は、アイスランドが数年のスパンで耐えしのいだそのようなエピソードの一つでしかなかったが、その記録は最もよく残っている。群のなかにいた何人かのファンド・マネージャーは、通常の守秘規則にこだわらずに、彼らの功績について自由に自慢した。国全体をやっつけることは、単に企業をやっつけるよりも明らかに自負心をより満足させる。
アイスランドの反撃
ISKの暴落と一パーセントに達する銀行のCDSスプレッドにともない、アイスランドはもはや、国際的なメディアが食い物にする狂乱のもとにあった。「アイスランドのメルトダウン」「アイスランドの噴火」「激しい火山岩」「ガイザー・クライシス」といった、どぎつい見出しをつけたニュース・レポートが日々発行されていた。その通貨の急潡な減価の脅威のもとでこれまでにない注目を受けたことに圧倒され、アイスランド人は終末論的な予言のすべてが真実となるかどうか自問した。彼らの国のなかで起こったことに対して外国人が関心をもつことは今までなかっただけに、とまどいを呼ぶような行きすぎたその突然の汚名は、彼らの心から取り除くことはできなかった。イギリスからの信用レポートは即時にパブリック・ドメイン〔著作権が放棄された状態〕となり、国内のメディアにおいて熱い議論を生み出した。人々はまず、その対外展開をもってこの国に災難をもたらしたとして銀行を非難した。悪いニュースに対する責任を逃れることに必死な政府は、銀行の窮地を救うためにはほとんど何もしなかった。
教訓──注目された点と無視された点
ガイザー・クライシスを独特の出来事としたのは、全世界がたとえ二ヵ月にせよ、金融界のちっぼけな一点に焦点を合わせたその強烈さであった。アイスランドは〈炭鉱のカナリア〉〔カナリアは炭鉱において、発生する毒ガスの早期発見のための危険察知システムとして利用されていた〕となる恐れがあった。世界で最小の独自通貨地域として、この島は「最小の呼吸器」をもっており、流動性が乏しくなったとき失神し、世界の他の地域に早めの警報を鳴らすと思われた。この予想は結果的に正しくもあり、誤りでもあった。グローバルな過剰流動性がもう一年続いたために、アイスランドは2006年には破綻しなかった。しかし、つまるところ、アイスランドは実際に早めの警報源となった。
第5章 バブルを生きる
ハンネス・スマウラソンであること
2006年の大晦日、アイスランド人は彼らの伝統的なお祝いの食事の後、落ち着いて国営テレビの「新年向け寸劇」をみていた。過ぎつつある年の出来事のパロディとして、寸劇をみることは真夜中の新年の花火と並んで国民的な慣習となっている。この年の目立ったジョークは、ハンネス・スノラソンという名の平凡な男が、日々の生活のなかで「そうだね。ハンネス・スノラソンはまるでハンネス・スマウラソンのように聞こえるけれども、君はどこかうまくいかないね」とか、あるいはもっと単純に「なぜ、君はハシネス・スマウラソンのようにうまくいかないんだ」といったようなコメントで追いつめられるというものであった。 アイスランド人は、国民的な有名人にあまりにも似た名前をもつこの平凡な男の窮状に爆笑した。 しかし、このジョークは、ハンネス・スマウラソンという名の実在の人物──狂気のギャンブラーであるのか、それとも非凡な才能に恵まれた人物であるのか、そのいずれかであるビジネス界の異端児──に拠っていた。依然として平等主義的な底流に共感をもつこの国において、スマウラソンが非難と嘲笑にさらされるのは避けがたかった。インターネットで方々に同時に流される歌が、「あなたたち皆が私の行動を知っている/私は街のトイレのようなものじゃない/あなたたちは皆、私に従うべきだ」とか、「ここにいるのはハンネス・スマウラソン/私だけがどのように売買するかを知っている」といった歌詞でからからなど、彼は大変な渦中にいた。
ICEX(アイスランド株式市場)の夜明けから衰退まで
1997年から2007年の間の歳月は、アイスランドの株式市場(ICEX)と投資バンキングにとって黄金の10年であった。銀行は国境を越えた買収についてクライアントにアドバイスし、ぼろ切れ状態からうまく金持ちになった。その過程で、銀行はひと握りのアイスランド人所有の多国籍企業の創出を助けた。この点で必要は発明の母であった。この国が世界に開かれ、経済を自由化し、サッチャー主義的自由市場の徳目を取り入れた後でさえ、この国はなお、アルミニウム精錬のような安価なエネルギーを求める産業を除き、どの部門にも外国の株式投資を引きつけることはできなかった。それは取り組みがないためではなかった。2002年、銀行民営化の最終局面で、政府は多くの外国銀行に接近し、政府が保有していた二つの銀行の株式所有権をもつよう勧誘したが、反応はせいぜいのところ生温かいものであった。
持株会社の隆盛
2006年末の目覚ましい回復の間、大西洋の両岸の、晴天時にしか頼りにならない友人たちは、アイスランドの銀行のオーナーたちにもう一つの恩恵を授けた。彼らは今や、国際的大銀行から直接の貸付を受ける際に、担保としてその株式を抵当に入れることができた。その株式を保有していた持株会社は、当初は適度の規模であったが、対外的なバンキング展開の継続的な成功につれて成長した。持株会社はまさに当初からレバレッジのもとにあった。例えば、ランズ・バンキの主要株主であるサムソン・ホールディングスは、国が2002年に〔ランズ・バンキの]民営化を決めたとき、同行の株式の48.3パーセントを買収した。その内訳は自己資本比率が30パーセントで、残り70パーセントは業者間での資金調達であった。
銀行とそのオーナー
その間ずっと、アイスランドの銀行家は、外国銀行から直接、借入資金を調達することによってみずからの力量を上げる投資会社についてとまどっていた。ある者は、外国銀行に借用リスクを移転し、共同貸付を減らして、国内の金融システムにおいてリスクを減らすことで満足した。カウプシングやエクシスタのような若干のケースでは、銀行は投資会社をしてより多く外部資金へと駆り立てた。しかし、外国のレバレッジによる支配力にかかわるとんでもない問題児について一般的な懸念もあり、そういった問題児のなかでも最も悪名高いのがハンネス・スマウラソンと彼のFLグループであった。
ロックスターの隆盛
かなり謎めいた存在であるバウグル・グループは、アイスランドの銀行における所有者と経営者の関係の謎を理解するうえでの手がかりとなる。オーナー兼マネージャーはジョウン・アウスゲイル・ジョウハンネッソン(1968年生まれ)であった。彼は、彼の姉と父とともにレイキャビクの波止場地域で格安スーパーマーケットの〈ボーナス〉を21歳で開店したとき、彼のビジネス帝国の構築を開始した。父のジョウハンネッソンは率直に言って普通の人で、そのときまでビジネスで大きな成功を得たわけではなかった。息子のジョウハンネッソンは父の気取らない性格あるいは有言実行を引き継ぐことなく、無頓着な学生であったが、信じがたいほど頑固で衝動的な企業家であった。彼が供給ネットワークを効率化してアイスランドの食品市場全体を近代化するにはちょうど5年かかった。その間に、ボーナスが最大の小売りブランド〈ハグカウプ〉を買収したとき、新しい組織体はバウグルと名付けられた(カウプシングとFBAは、このテイクオーバーに対するアドバイザーであり、その1年後、バウグルがICEXに上場されたとき、同社のIPO〔新規株式公開〕を引き受けた。
頓挫した着地
アイスランドのエコノミストたちは、2006年夏には一般的に景気の下落を予想していた。通貨危機騒ぎは民間消費と消費者用の下落に導いた。二つのアルミニウム製錬所とそれに関連した発電所の建設が2007年に終了したので、投資もまた下落に直面した。経済の冷え込みと国内需要の低下にともなって、マクロの不均衡が自己修正され、2005年にはGDPの15パーセントに達した経常収支の赤字が狭まり始めたことが明確であるようにみえた。 この結論を支持する十分なデータがある。民間消費はガイザー・クライシスに先立つ2005年から2006年にかけて各四半期に10パーセントないし15パーセントの率で成長していた。その後、成長率はゼロまで鈍化し、2007年の第1四半期には、それはマイナスとなり、家計支出は前年より1.4パーセント減となった。
バブルを生きる
アイスランドのバブルは株式市場の活況によって最もよく説明される。投資バンキングと持株会社が果たした圧倒的な役割を考えると、1929年の株式市場の暴落に導いた米国の狂騒の1920年代と比較するのが最もふさわしい。アイスランドの投資家たちは、じつのところ自分の国の経済に賭けていたわけではなかったので、ほとんどの観察者は、歴史は繰り返し、ブームがハード・ランディングで終わるという見通しをあまり気にかけなかった。そして、投資家たちは世界の株式市場に、それも世界の金融史においてほとんど先例のない規模で、賭け金を置き続けた。
第6章 地獄への道
101ホテルでの陰謀
2008年1月31日木曜日の夜、カウプシングのトレーダーとアナリストの一群が、レイキャビクの最新流行ホテル〈101〉のバーにやって来た。彼らを招いたのは、メリルリンチとベアー・スターンズのディーラーや投資家によって集められたヘッジファンド・マネージャーの一団である、とりわけ買い気の強い外国人投資家のグループであった。このグループはアイスランドに到着したばかりであったが、明らかに彼らはビジネス・クラスの機内で大量のただ酒を飲んでいた。アイスランド人の目からみれば、そのリーダーは華やかな顔立ちをした50代半ばの白髪の米国人、「ジョー」のようであった。彼は山師というよりはニューヨーク市警官のようであり、みていて楽しいとしても、あまり話を聴く気になるような人物ではなかった。
暗闇の前の夏
そのちょうど数カ月前には、激震がアイスランドに戻ってくるという徴候はほとんど見受けられなかった。2007年の夏はICEX(アイスランド株式市場)高騰の時期であり、大量の取引量によって銀行の取引所では夏の休暇がキャンセルされるほどであった。その年の初め、この指標での最大の非金融会社(ジェネリック薬品会社のアクタビス)がGDPの約8パーセントに等しい約13億ドルの現金をそのアイスランドの株主にもたらしたレバレッジド・バイアウトで非上場とされた。新しいアイスランドの多国籍企業の顔といってよいアクタビスは、国際的な特許権規制のはざまを縫って成長してきたが、今や世界最大のジェネリック薬品会社の一つになっていた。そのバイアウトは、ドイチェ・バンクからの資金調達をもってランズ・バンキのオーナーであるトール・ビョルゴウルフソンによってレバレッジされた。株主たちは彼らの投資に対して何倍もの収益を受け取り、多くの者はそれらの売上金をつり上がったICEXに再投資した。7月にはICEX市場の株価時価総額は3兆ISK以上で、アイスランドのGDPのほとんど3倍であった。
プレッシャーのもとで
アイスランドの銀行が新しい危機に対してまったく不用意であったというわけではない。事実それは、その資金調達がより多様化され、満期がより長かった──ガイザー・クライシスを生き残った成果としての戦略を構築していたので、多くのホールセール銀行よりも良好な状態にあった。残念ながら、2006年の出来事の教訓はまた、苦しいときの最良の戦略はとにかく嵐を乗り切ることだということであった。このことは、2007年においては、金融の世界がひっくり返りつつある事態を受け入れるまでにあまりにも出遅れたということを意味した。それはまたレバレッジを減少させ、資産を売り払うのを遅らせた。
無人地帯で
アイスランドにおけるバンキング拡大の原動力は、この国が1994年にEEA(欧州経済領域)のメンバーになったとき、ゴーサインを得た。EEAのメンバーになるということは、より大きなEU(欧州連合)への間接的なアクセスを手に入れたと理解してよい。加盟諸国間の財、労働、資本、サービスの移動には障害がなくなり、以後、加盟国はEUディレクティブ (EU指令)と規制を自国の法的枠組みに組み込んでいくことになった。これに参加することによって、アイスランドは、全面的なEUのメンバーとしての条件に従うことなく、ヨーロッパ共同体市場にアクセスできた。
アイスランドの政治的リーダーシップ
政策当局は、ブームの時期には、その豊富な税収入、恵まれた雇用、そして国民的プライドの鼓舞という面で、バンキングの拡大を何ら欠点のない贈り物としてみていた。その物事を気にしない不用意さは、ひどい純朴さと田舎臭さをさらけ出した。政府は、成長し続けてきた三つの巨人の周りにインフラストラクチャーを構築するのに必要な資源(外貨準備のような)を配分しなかった。
アイスランドの銀行は救うことができたのか?
〈アイスランドのバンキングは救うことができたのか?〉──この問いはまた、われわれが2007~2008年の出来事から十分な距離を置くようになるまでは机上のものであろう。たしかなことは、大規模な外貨準備と主要中央銀行による引き受けがあれば、アイスランドはリーマン・ブラザーズの破綻後に始まったシステム全体に広がる銀行取り付けを容易にもちこたえることができたであろうということである。しかし、そのとき何があったのか? 三つの銀行は2009年にかなりの程度の資金調達の必要があり、資産の適格性はアイスランドと海外営業において悪化し始めていた。三行にとって、またすべての銀行にとって、投資バンキングは死に体であった。あるいは、せいぜいのところ、予見可能な将来において休止状態になるビジネスだったと言ってよい。
第7章 国家破綻の現実
運命の週末
〔2008年〕10月の最初の数日、レイキャビクの古い首相官邸は、作戦本部の地下壕のようになった。古典様式の大きな邸宅は全体として華麗であったが(大きな窓と刻まれた飾りがたくさんあるその邸宅は、ノルウェー人の捕鯨商人によって島の西側に建てられ、その後、アイスランドの最初の首相への贈り物としてレイキャビクに移設された)、それはこの国の危機対策本部になった。10月2日と3日、木曜日と金曜日、ほとんどすべてのアイスランドのリーダーたちがこの建物の中へと急いだ。そのなかには、労働組合代表、ビジネスリーダー、投資銀行家、年金基金経営者、中央銀行幹部、法律家、エコノミスト、すべての重要政治家が含まれていた。
デジタル時代の取り付け
週の始まりの9月29日〔月曜日〕には、イギリスの30万口のアイスセーブロ座に約47億ポンド〔の預金〕があった。それが金曜日〔10月3日]にはほぼ2億ポンドが流出した。イギリス当局は、前年のノーザン・ロックの崩壊を思い起こして、そのような行動に対して油断することなく見守っていた。ランズ・バンキは、イギリスでの引き出しをカバーするためにすでに資金を移していたが、金曜日にイギリスの規制当局は同行に対して、4億ポンドをより直接的にイングランド銀行へ移転するよう要請した。
解決策
貧困と飢饉に打ちひしがれた過去に由来する古いアイスランドの格言がある。 「アイスランドの不幸は、その手にすべての武器をもたらす」。 そのことは、2,008年10月4日土曜日に、最悪のシナリオをよみがえらせるかにみえた事態に直面して、その選択肢を判断するために国のリーダーたちが集まったとき、たしかに真実のように聞こえた。銀行が月曜日に営業を再開する前に、計画が実行されなければならないことは全員が知っていた。国の存亡が賭けられているように思われた。
絶望的な銀行と失敗したテイクオーバー
アイスランド金融システムの全体を揺るがせている事態は、9月15日のリーマン・ブラザーズの破綻によって引き起こされた。三月のベアー・スターンズのときと同じように、リーマンは、問題のある不動産資産について重大な暴露がなされたという噂のせいで、これまでで最大の損失を記録した後に市場の信頼を失った。市場に見捨てられた銀行がつねにそうであるように、これに続く流動性の取り付けは避けられなかった。
テロリスト国家
アイスランドの規制当局が、JPモルガンの支援を得て案出した緊急計画「防壁」は、基本的にグリトニルとランズ・バンキがデフォルトではなく、管理下に置かれることを求めていた。その国内と外国の営業は続けられることになっていた。すべてのアイスランドの企業および個人の預金と貸付は、国内の営業をそのまま引き継ぐ新しい存在──「新グリトニル」と「新ランズ・バンキ」──に移されることになっていた。外国の資産は旧銀行内に残され、債券保有者に対する賠償の手段として売却される予定であった。移されたアイスランドの資産は満期時点で外部の関係者によって評価されることになっていた(この仕事は結果的に国際経営コンサルタント企業であるオリバー・ワイムンとデロイットに与えられた)。そして、新銀行は債券保有者に対する支払いの手段として公正価格の評価にもとづく債券を発行することになっていた。
第8章 ロスト・イン・アイスランド
ロシアから愛を込めて
〔2008年〕10月7日火曜日は、世界の前途に何の考えもなかったとしても、銀行員がとにかく朝早くから職場に出勤した日であった。ランズ・バンキは前日の夜、FSA(アイスランド金融庁)のもとで管財人管理下に入り、政府買収の約束にもかかわらず、グリトニルもそれに続いた。 カウプシングは水曜日にそれらに続いたが、同行は最後まで、唯一の生き残りになることを言じていた。
キャリートレードの後遺症
アイスランドは2008年に二つの危機をこうむった。一つはバンキングで、これは三つの銀行の破綻とリストラによって「解決」された。通貨危機は現実には3月に始まったが、クローナ(ISK)が9月末にほとんど交換不可能になったとき、それは深刻化した。バンキングの破綻はその解決には何らつながらなかった。イギリスが10月8日〔水曜日]に反テロリズム法を発動し、世界の他の国からの通貨市場の支払い・決済メカニズムを事実上切断した後、それは新たな空前の高さにまで達した。
しぶしぶの援助受け入れ
IMFの支援は、通貨危機に対する解決策であることはいうまでもない。じつのところ、政府が破綻前に支援を要請するという見識をもっていたなら、それはアイスランドのバンキング危機をも多少は解消していたかもしれない。IMFの設立メンバーであるアイスランドが支援を求めたのは、これが最初ではなかった。しかし、主権喪失の恐れ、あるいは愚かなプライドのために、アイスランドは少なくとも非常時用の機関として役立つ基金に要請することを避けていたようにみえる。
アイスセーブ論争
バンキング危機の猛烈さと同じくらい猛烈に、政府のいくつかの部隊はその仕事を推し進めようと試みた。ホルデの退却〔バンキング危機にともなう緊急帰国〕とジスラドッティルの病気にもかかわらず、外務職員はなおも国連安全保障理事会へのアイスランドの立候補を促進していた。これはほとんど4年間進められてきた努力であり、外交官たちは、銀行破綻と「テロリスト国家」の烙印によって広く生み出された致命傷でそれが沈められることはないと決意していた。彼らは他の小国を説得し、最後の瞬間までその主張を論じ続けた。しかしながら結局、10月17日にオーストリアとトルコが、投票でたやすくアイスランドを破り、この国にもう一つのグローバルな傷を負わせた。
つねに人生の輝かしい側面をみよう
アイスランドは今や、パンキング問題を「解決」すべき唯一の西側国家であるという怪しげな名誉を享受している。三つの銀行が管財人管理下に入ったとき、金融システムの約85パーセントが破綻した。6カ月後、残りの3分の2が倒れ、FSAは二つの貯蓄・貸付基金と、投資銀行のストラウムル・ブルダラスの支配権を得た。貯蓄・貸付基金は本来的に株式持ち分はなかった(実際にはそれ以上の制約があった)が、一方、ストラウムルは設定された期日までに対外的な借り換えをうまく処理できなかった。このことは、西側諸国がなおも自国のシステムを守ろうとしているなかで、アイスランドのバンキング・システムの約95パーセントが、もはや国家の管理下にあることを意味していた。
現在、アイスランドの政治には二つの異なった陣営がある。一つは、つかの間の国際的栄光のいくつかを取り戻すための唯一の望みとしてEUへの参加を考えている。もう一つは、自然資源ベースの経済をその内容とする古いアイスランドに戻ることで十分満足だというものである。国内の秩序を維持するのか、あるいは積極的に外に突き進むのか。それはアイスランド人にとっては非常になじみのある選択肢であり、おそらく、海が孤立と冒険を請け合う遠く離れた島国で生きていくことの自然の成り行きである。
終章 テムズ川沿いのレイキャビク
西側世界の銀行は数十年の間、債券保有者や預金者の損失に対して政府保証があるという想定のもとで営業してきた。2008年、それはヨーロッパにおける大きな銀行の最後のデフォルトがあってから35年後〔第一次石油ショック時以来]のことであった。──その間、失敗した銀行はすべて救済されてきた。国の支援についてのこの想定は疑問の余地なく、西側のバンキング・バブルを傷るのに役立ち、また、アイスランドの銀行が格付機関の見地からみて光り輝くのを助けた。
現状のまま金融システムが崩壊し続けるとすれば、大西洋の両岸での数済案は、それを組み立てる政府を破産させるという現実的なリスクをともなっている。金融再生に必要なデレバレッジ量が諸政府の財政能力と比べてあまりにも大きいとすれば、これは現実問題である。 アイスランドは生死のいずれであるとしても、〈炭鉱のカナリア〉と言ってよいであろう。
訳者解題 グローバル経済の実験室──小国経済の明と暗
アイスランドは2008年10月のわずか1週間のうちに、その主要銀行のすべてと、国そのものが破綻した。本書(Aogeir Jonsson, _Why Iceland : How One of the World's Smallest Countries Became the Meltdown's Biggest Casualty, McGraw-Hill, 2009)は、この国最大の銀行〈カウプシング銀行〉の主任エコノミストならびに調査部長であった著者が、現場の証人として、その破綻に至るいきさつと衝撃の日々をつぶさに語っている。
しかし、アイスランドの破綻は、リーマン・ショックに連動していたとはいうものの、数年前に遡ってその前兆をみることができる。著者は、2006年のヘッジファンドによるアイスランドに対するショート(空売り)攻勢で起こった〈ガイザー(間歌泉)・クライシス〉を分析し、アイスランドが〈炭鉱のカナリア〉として来るべき世界金融危機への鐘を鳴らしていたと言う。つまり、この時点で、グローバル金融市場には危険なガスが充満していたということであろう。そして、2008年の破綻の余波はいまだに収まることを知らず、ギリシャ、アイルランド、さらにイタリア、スペインでも金融危機が各国での財政破綻を呼び起こし、さらにそのことがヨーロッパの主要銀行を追いつめる状況が繰り返し伝えられてきた。また、それだけではなく、2011年の春から夏にかけて米国債務上限引き上げ問題とかかわって、アメリカ国債のデフォルトの可能性といった事態すら想定されるようになっている。この間、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)やLIBORの不正操作が話題となっているが、それらの用語は本書におけるアイスランド破綻の分析でもキーワードになっている。
本書では、アイスランド同様に独自通貨をもつ国であるイギリスのシティの将来など、アイスランドの破綻が国際金融市場におよぼす影響についても独自の論点を提示している。本書は、2008年の金融危機にかかわるこのような分析とともに、アイスランドのバンキング業界の形成と1990年代に急進展した金融自由化の実態、金融立国への動きをも明らかにする。
著者にはアイスランドの社会とその歴史に関する著作もあり、本書においても、ノルウェーからの植民者たちがあくまでも専制君主制を避け、世界最初の議会である〈アルシング〉を生み出し、その維持に努めたこと、また、北極圏に近い孤島にありながら、10世紀末にはすでにアメリカ大陸を〈発見〉していたなど、つねに世界を視野に入れた個人の行動がみられたこと、そして、デンマークの支配下でヨーロッパの近代化から取り残されたにもかかわらず、サガとエッダにみるような文芸面で誇りをもつ国であったこと、自立心と自我の強さの一方で人々の絆の強さを特徴とする国民性をもっており、移民国家特有の〈アイスランド・ドリーム〉が存在することが、じつにわかりやすく語られている。そしてまた、第二次世界大戦後初期の米軍基地に依存した経済近代化、イギリスとのタラ戦争後の乱獲と漁獲割り当て制度、そしてその金融商品化、1970年代の石油ショックを契機とした水力・地熱発電の推進、その安価な電力を利用したアルミニウム精錬、国家負担による医療と教育、高学歴の若い人的資源、さらにはEEA(欧州経済領域)への加盟による資本と人的資源の移動の自由化といった、現代アイスランドの経済発展の諸要因の分析も行っている。また、かつてのバイキングの若者がヨーロッパ各地での冒険の後に親の農場を継ぐため帰国したように、今日、海外で高学歴を得て職に就いた若者の多くは、所帯をもつ時期になると国内に仕事を求めるのであって、金融立国の担い手となった若き銀行家の多くもそういった人たちであったという指摘もきわめて興味深い。
