Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

中北浩爾『自民党政治の変容』NHK出版(NHKブックス) 312.1

中北さんの〈3部作〉をこれで全部読み終えた。どれも面白いし,これも同様に面白い。個人の発言の引用が,あいからず上手い。惜しいのは,この本が安倍晋三の政権復帰のところで終わっているところ──2014年刊行の本だからしょうがないけど。

はじめに

もっとも、河野の批判を受けた安倍は、「「保守主義」、さらにいえば「開かれた保守主義」がわたしの立場である」と書くなど、自らを「保守」と規定している。かつて安倍は、河野が総裁を務めていた際に綱領的文書から憲法改正の文言を削除しようとし、それに抵抗した自分の過去を振り返りながら、次のように発言したことがある。「党として改憲の立場にある自民党に入ってくる政治家であれば、当然、改憲をめざさなければなりません。そうでない考えの人がなぜ自民党に入るかといえば、たんに与党に入りたいということだけであって、それは政治家としての堕落です」。安倍からすれば、自民党は「自主憲法の制定」の党是のもとで一致結束すべきだということになる。

安倍と河野のいずれが自民党の中心を担うべき正統な保守であるかは、見方によって異なる。したがって、本書では「保守派」という言葉を使うのは避け、安倍と河野の政治的立場をそれぞれ「右派」「リベラル派」と呼ぶ。以前は「タカ派」「ハト派」と呼ばれることも多かったが、両者を最も明確に分かつのは、憲法改正の是非、より正確に言えば、押しつけ憲法論に基づく「自主憲法の制定」の党是に肯定的なのか、否定的なのかである。つまり、日本国憲法に体現される戦後的価値、安倍の言葉を使うと「戦後レジーム」からの脱却を目指すのが右派であり、それを擁護するのがリベラル派である。

本書の目的は、1955年の結党以来、今日に至るまで、自民党が理念と組織の両面でどのような変化を遂げてきたのかを、具体的な事実に即して明らかにすることにある。自民党は、非自民八党派の細川護熙内閣と羽田孜内閣の8カ月、民主党の鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦内閣の3年3カ月を除き、長期にわたって政権を担当してきた。それが可能となったのは、長らく野党第一党の座を占めてきた日本社会党やその系譜を一部引く民主党などに対抗しつつ、自らの理念と組織を作り変えてきたからにほかならない。近年の自民党の右傾化も、その絶えざる変化の歴史の一局面なのである。

本書は、約60年間の自民党政治の変容を描くにあたり、独自の視角を採用する。従来、自民党の歴史は、1955年体制下を対象として、派閥の合従連衡とそれに伴う総裁・首相の交代、あるいは個人後援会や族議員にみられる利益誘導政治の発展として記述されることが多かった。それに対して本書は、派閥と個人後援会を基礎とする利益誘導政治からの脱却の模索の歴史として描き出す。

まず第一章では、1955年の結党から1970年代初頭にかけての党近代化について扱う。党近代化とは、台頭する社会党に対抗するため、党員や支持団体に基礎を置く集権的な組織政党を建設し、国会議員による分権的な議員政党から脱却しようという動きであり、それを通じて利益誘導政治を克服しようとする試みであった。しかし、右派の岸信介・福田赳夫とリベラル派の三木武夫の二つの構想が対立し、鳩山一郎内閣と田中角栄内閣の二度にわたって小選挙区制の導入に失敗したこともあり、党近代化は難航した。

第二章では、ロッキード事件が発覚した後の1977年の総裁予備選挙、すなわち全党員・党友の参加による総裁選挙の導入とその意味を検討する。これは、同じく党員や支持団体を重視しながらも、集権的な党組織を目指す党近代化論者と、分権的な党組織を指向する日本型多元主義者の同床異夢によって実現した。前者が三木と福田であり、後者が香山健一をブレーンとする大平正芳である。結果として、リベラル派でもある日本型多元主義者が勝利を収め、保守復調を経て、1980年代半ば、中曽根康弘内閣の頃に全盛期を迎える。河野がイメージする古き良き自民党に最も当てはまるのは、この時期である。

本書は、非常に論争的なテーマを扱っている。それゆえ、自民党が発行してきた機関紙誌に全て目を通すなど、可能な限り多くの文献や資料を利用し、典拠を示した。ただし、基本的な歴史的事実については、『朝日新聞』『読売新聞」『毎日新聞』といった一般紙のほか、『朝日年鑑』や「読売年鑑』を参照し、順雑になるのを避けるため注を付けない場合が多い。

第一章 党近代化と小選挙区制導入の試み

一 岸信介と小選挙区法案の挫折

1955年体制の成立

1955年、日本の政党政治は大きく変容した。左右両派の二つに分裂していた日本社会党が10月13日に再統一を果たし、11月15日には日本民主党と自由党が合併して、自由民主党が結成された。この自民党を政権党、社会党を野党第一党とする1955年体制の成立は、長い年月を経て、階級対立が政党システムの形状を規定するようになったことを意味した。

保守合同は、両派社会党が統一した1カ月あまり後に断行された。それを後押ししたのは、経団連(経済団体連合会)、日経連(日本経営者団体連盟)、同友会(経済同友会)、日商(日本商工会議所)の経済四団体を中核とする財界である。社会党統一の主導権を握ったのは、マルクス主義に基づく綱領を掲げる左派社会党であった。左派社会党は、階級闘争を標榜する労働組合のナショナル・センターの総評(日本労働組合総評議会)の支援を受け、穏健な全労(全日本労働組合会議)が支える右派社会党に対して優位に立った。それゆえ、社会党の政権獲得を阻止しようと、財界は保守合同を求めたのである。自民党は、農地改革によって自作農化が進んだ農民や中小企業者を中心に集票を行う一方、財界に政治資金を大きく依存した。

階級対立と保革対立の間には、微妙なずれが存在した。自民党の内部は対米協調で概ね一致していたが、1956年の日ソ国交回復をめぐり対立が顕在化した。より深刻な裂が走ったのは、社会党である。冷戦の緩和・解消を目指す社会党の基本方針は、東西両陣営に対する中立であったが、最左派はソ連や中国など東側諸国に好意的な立場をとり、他方、最右派はアメリカを盟主とする西側寄りの態度を示した。1959年、社会党は安保改定をめぐる論争を一因として再分裂し、翌年1月24日に全労の支援のもと、民主社会党が結成される。こうした外交・安全保障政策をめぐる社会民主主義勢力の内部対立の深刻さが、自民党長期政権を可能にする大きな原因となった。ただし、社会党が第九条をはじめ日本国憲法の擁護(護憲)を唱えたことは、憲法改正をめぐる自民党内の意見の分岐を生じさせた。

階級対立が、保革対立と重なり合いながら、政党システムの基本的な対立軸を構成するようになった一因として、ヨーロッパの政治発展が当時の日本のモデルであったことが挙げられる。なかでも、保守党と自由党の二大政党制から、保守・自由・労働の三党鼎立を経て、保守党と労働党の二大政党制へと移行したイギリスの政治が、政界でも学界でも理念型とみなされた。そして、統一した社会党の素議院の議席は、自民党の2分の1にすぎなかったとはいえ、都市化と工業化の進展によって労働者の比率が上昇していたこともあり、着実に増加していくことが予想された。それゆえ、その後の展開を知っている我々からは想像がつかないほど、社会党の実力は高く評価されたのである。

近代的組織政党の建設を目指した岸信介

保守合同の最大の立役者は、戦後、A級戦犯容疑者として逮捕され、1953年4月19日の総選挙で政界に本格的に復帰したばかりの岸信介であった。なぜ岸は保守合同に邁進したのか。その総選挙に際して発表された岸の論文には、「英国の保守党と労働党の例に見られるように、近代国家の民主政治は二大政党が最もよい」「保守政党は、労働者或いは広く勤労階層に対しても社会政策的見地に立って相当なことをやらなければならない」「革新党も社会主義の公式論にとらわれないで、現実を直視していくように」などと書かれている。岸は、イギリスをモデルとして、階級対立に基づきながらも協調的な性格を持つ保守政党と社会民主主義政党の二大政党制を実現したいと考え、保守合同を推し進め、自民党の初代幹事長に就任したのである。

以上のように自民党が議員政党から組織政党、政治学者のモーリス・デュベルジェの用語を使うならば、幹部政党から大政党への脱皮を目指した背景としては、この当時、それこそが歴史的な傾向であり、かつ実現されるべき目標であるという認識が、政治学者をはじめ広く浸透していたことが挙げられる。西欧の近代を規範とする近代主義の一種である。近代的組織政党の建設という言葉が使われ、やがて党近代化と呼ばれるようになったのは、それゆえであった。ただし、現実のモデルとして考えられたのは、イギリスでも労働党ではなく保守党であり、国会議員の個人後援会を党の地方支部に切り替えつつ「ピラミッド形の組織」を作り上げていくという、漸進的なアプローチが採用された。

保守の理念と「自主憲法の制定」の党是

総裁公選の導入には、大きくいって二つの目的があった。一つは、総裁人事をめぐる民主・自由両党の対立を解決し、保守合同を実現するためである。自民党は総裁を決められず、4名の代行委員制で発足せざるを得なかったが、前自由党総裁の緒方竹虎の急死を経て、1956年4月5日の第2回臨時党大会において総裁公選が実施され、前民主党総裁で首相の鳩山一郎が対立候補なしで当選した。総裁公選のもう一つの目的は、組織政党の建設である。党費を納入するなど党の活動に積極的に参加する党員を多数獲得するためには、党内民主主義が不可気だと考えられ、都道府県連選出の代議員にも投票権が与えられたのである。総裁公選が実施された第2回臨時党大会までに43の都道府県連が結成を終え、市区町村支部の設置も精力的に進められた。

それでは、自民党はマルクス主義に対抗するために具体的に何を主張したのか。結党時に発表された「党の性格」には、階級独裁に対する議会制民主主義の擁護、国有化や官僚統制などの社会主義経済に対する修正資本主義と福祉国家の実現、階級的利益に対する国民的利益の代表といった主張が盛り込まれた。この「党の性格」で、「国民政党」「平和主義政党」「民主主義政党」 「議会主義政党」「進歩的政党」「福祉国家の実現をはかる政党」という自己規定を行い、同じ趣旨の「網領」を制定したことからも分かるように、当時の言葉を使えば、「進歩的」な保守の理念が掲げられたといってよい。 ところが、「党の性格」と同時に策定された「党の使命」の次の一節を読むと、そのイメージは大きく揺らいでしまう。「憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当たり、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急澈な台頭を許すに至ったのである」。ここでは反共産主義や愛国心がかなり赤裸々に強調されている。

財界から後押しされた党近代化

これまでみてきたように、議員政党から組織政党への脱皮を目指して結成された自民党は、総裁公選の導入や保守の理念の強調によって、党員や活動家を積極的に獲得し、党の足腰を強め、日常活動を活発に行おうとした。それに加えて試みられたのが、国会議員に対する党執行部の統制力の強化である。個々の国会議員が党執行部から高い自立性を持ち、党の方針に従わなかったり、あるいは非制度的な議員集団である派閥が活発に活動し、その領補が大きな影響力を行使したりすることは、党執行部の政治的リーダーシップを弱めるとともに、党員や活動家の党活動への参加意欲を損ねてしまうからである。 なかでも深刻なのは、民主・自由両党それぞれの内部に複数存在する派閥の問題であった。

こうしたなかで党執行部の統制力の強化を後押ししたのが、財界であった。1953年7月27日の朝鮮戦争の休戦後、特需の減少に見舞われた日本経済は、国際収支を改善するための緊縮政策を必要とし、安定政権を求める財界は、保守合同による単独過半数内閣の立を要請した。しかし、それだけでは不十分であった。なぜなら、国会の各委員会に利害の一致する議員が超党派的に集まり、関係省庁や業界団体と結び付き、「お土産法案」と呼ばれる予算措置を伴う議員立法を成立させ、財政を膨張させていたからである。こうした利益誘導政治の典型例が、1953年度予算案が修正された際に実現した造船利子補給であり、それをめぐる贈収賄が造船疑獄として発覚し、自由党の吉田茂内閣を弱体化させただけでなく、財界をスポンサーとする保守支配を動揺させた。

中選挙区制という問題

党執行部の統制力を強める手段として最も重視されたのは、選挙制度改革であった。具体的に言えば、衆議院の単記非移譲式の中選挙区制が問題視された。

中選挙区制のもとでの同士討ちの問題を誰よりも痛感していたのが、同じ山口2区で実弟の佐藤栄作と争っていた岸信介であった。二人の関係は良好だったが、地元では親戚が二派に分かれて機烈な選挙戦を展開していた。岸は次のように述べている。「われわれが選挙において一番激しく開うのは何であるかというと、社会党とじゃない、同じ政党の間における闘いですね。それは大体支持する票が同じなんです。それをあつちでとるかこつちでとるかー社会党の票はなかなかとれないから、同じ政党内の票をとり合う。ところが、小選挙区にすれば……あくまでも社会党、反対党と闘うということにしていけば、党内の統制はある程度つく」。

鳩山内閣による小選挙区法案の失敗

だが、小選挙区法案の作成は、区割りと定数をめぐって紛料した。政府の選挙制度調査会の案は、完全な1人1区で、選挙区の境界線も地勢・交通や市区町村界などを考慮して比較的合理的に定められた。しかし、自民党の選挙制度調査特別委員会の案は、全国に20の2人区を設けたほか、馬型や飛び地など合理性を欠く不自然な形状の選挙区が少なくなかった。

社会党の内部には、右派を中心に左派の一部を含め、イギリスの二大政党制をモデルとして小選挙区制を支持する意見も存在していたが、最終的に一致して反対することを決めた。その理由は、鈴木茂三郎委員長の「小選挙区制は憲法改正と保守政権維持の陰謀である」という発言に示されている。

社会党にとって追い風となったのは、アメリカのゲリマンダーをもじってハトマンダーと呼ばれた鳩山内閣の不自然な区割り案に対して世論の批判が高まったことである。新聞をはじめとするマス・メディアや学界では、小選挙区制への賛否は、当初相半ばしていたが、政府案が明らかになると反対が強まった。世論の動向を背景として、社会党の反対は一層激しくなり、国会審議が混乱を続けると、小選挙区制の導入を支持していた財界ですら、政府案を修正するよう鳩山内閣に申し入れた。

以上からみて、小選挙区法案が失敗した最大の原因は、自民党の執行部が国会議員や派閥を十分に統御できなかったことにあった。すなわち、自民党が国会で社会党を遥かに凌駕する議席を持ち、世論も小選挙区制に必ずしも反対でなかった以上、党執行部が所属議員の要求を抑え込み、世論の納得を得られる合理的な区割り案を作成した上で、反主流派の動きを封じ込めて採決を行いさえすれば、小選挙区法案は成立したはずである。小選挙区制を導入する目的は、党執行部の統制力を強化することであったが、まさに党執行部の政治的リーダーシップの久如が、それを挫折に導いたのである。

二 三木武夫と党近代化の失敗

派閥と個人後援会の発達

小選挙区法案が挫折すると、自民党は組織政党の建設という目標から遠ぎかっていった。注目すべきは、党員や活動家を獲得するために導入された総裁公選が、逆説的に派閥抗争を激化させたことである。鳩山首相の引退を受けて、1956年12月14日の第三回党大会で実施された総裁公選においては、八個師団と呼ばれる派閥が熾烈な多数派工作を展開した。

岸内閣による小選挙区制の先送り

この総選挙で、自民党は勝利を収めた。自民党は前回の総選挙での民主・自由両党の合計より10減の287議席、社会党は前回の両派社会党と労働者農民党の合計から6増の166議席であったが、自民党は選挙後に保守系無所属の11名を追加公認して298議席とし、結党時の299議席をほぼ守り、他方、小幅な議席の増加にとどまった社会党は、政権獲得の見通しを当面失った。岸は、第二次内閣を組織するにあたって派閥均衡主義をとらず、派閥の希望やその内部の序列を無視して閣僚を選び、派閥に打撃を与えた。党執行部の統制力が著しく強化されたのである。 しかし、総選挙の1ヵ月後にダグラス・マッカーサー2世駐日アメリカ大使と会談した岸首相は、小選挙区法案の国会への提出について、その必要性を力説しながらも、社会党や世論の反発を招き、次の参院選に悪影響を及ぼすおそれがあるので、その後に先送りしたいと述べた。

安保紛争を受けた党近代化への動き

安保改定は党外の反対運動と党内の派閥対立で難航し、新安保条約の批准とともに、岸首相は辞任を余儀なくされた。しかも、派閥間の激しい多数派工作の末に後任の総裁に選出された池田勇人は、そもそも組織政党の建設に熱心でなかったばかりか、安保紛争を引き起こした岸を反面教師とした。1960年7月19日に成立した池田内閣は、「所得倍増」や「寛容と忍耐」をスローガンに掲げ、社会党などの野党に対して「低姿勢」をとり、憲法改正や小選挙区制の導入を強行しないと明言する一方、自民党内の融和を図り、派閥均衡主義を採用した。

派閥の解消を打ち出した三木武夫

かくして、池田総裁の指示に従い、1962年11月14日、三木武夫を会長とする第三次組織調査会が発足した。すでに二次にわたる組織調査会の提言に従い、青年部と婦人部からの党大会代議員の選出、党友制度の導入、地方駐在組織員の配置、農村組織指導員の任命、国民協会の設立などが実現していたが、この第三次組織調査会は、より抜本的な問題について徹底的に調査・検討を行うべく、約100名の委員によって構成され、「政党の基本小委員会」「選挙制度小委員会」「党の組織小委員会」「資金小委員会」「団結小委員会」の五つの小委員会を備えた。

石田博英と労働憲章・基本憲章の制定

この第三次組織調査会で理念に関して重要な役割を果たしたのは、副会長兼「政党の基本小委員会」委員長に就任した石田博英であった。三木と石田の関係は戦前、三木が初めて立候補した1937年4月30日の総選挙までさかのぼる。その当時、早稲田大学の学生であった石田が、助教授を務めていた吉村正に連れられ、応援に出かけて以来であったという。三木は石田が参謀役になった石橋内閣の樹立に協力して、幹事長と官房長官のコンビを組み、石田は石橋派が解消すると、三木派に合流することになる。なお、両者をつなぎ合わせた政治学者の吉村は、後に党中央政治大学院の院長に就任する、当時の代表的な自民党のブレーンであり、かつイギリス保守党をモデルとする党近代化のイデオローグであった。

挫折に終わった三木答申

三木答申に対する直接的な反発は、解消の対象となった派閥から生じた。だが、この答申の提出後、総裁派閥の池田派を皮切りに、次々と派閥が解散した。大野伴睦や河野一郎など派閥有用論を説く領袖もいたが、大義名分には逆らえなかったのである。しかし、派閥は結局、政治資金規正法に基づく団体から親睦団体に再編されるにとどまり、名称を変えただけで存続した。実際、その翌月、1963年11月21日に実施された総選挙は、党主体の選挙とはならず、派閥を中心として戦われた。派閥の解消という三木答申の最大の目標は、否定されないまでも、失敗に終わったのである。 失敗の原因は、やはり来議院の中選挙区制に求められよう。

三 田中角栄と小選挙区制の再挫折

高度成長と利益誘導政治の発展

三木答申が事実上挫折した1960年代半ば、結党から10年を経た自民党では、派閥と個人後援会に特徴づけられる分権的な党組織が固定化していった。組閣にあたって主流派の優遇人事が行われなくなり、派閥の勢力比に応じた閣僚ポストの配分が定着したことは、その一例である。また、国会議員の個人後援会が確立し、その結束を維持すべく二世議員が増加していった。この二世議員の増加の背景には、閣僚や党役員の抜擢人事が少なくなるなど、当選回数に基づく国会議員のキャリアパスの制度化もあったといわれる。

かくして、分権的な自民党の党組織のもと、派閥の領袖とメンバー、国会議員と個人後援会の会員、族議員と業界団体など、恩顧主義(クライエンテリズム)的な利益誘導政治が重層的にでき上がっていった。それを可能にしたのは、日本経済の高度成長であった。前述したように、1955年に結成された自民党が集権的な組織政党を建設することで利益誘導政治を克服しようとした背景には、1953年の朝鮮休戦後に国際収支の危機が起こり、緊縮政策を実施しなければならなくなったという事情が存在した。しかし、高度成長が軌道に乗ると、自民党政権は財政・金融面で積極政策に転換し、そのもとで利益誘導政治が定着していったのである。

1960年代に入ると、高度成長で大きくなったパイが予算を通じて農民に配分されるようになる。とりわけ農業基本法が制定された1961年以降、農協とそれを代弁する自民党議員の圧力によって、生産者米価が継続的に引き上げられた。農業と他産業の従事者の間の所得の均衡は、農業基本法が目標とした農業の生産性向上よりも、生産者米価の引上げによって図られたのである。土地改良事業も、農業基本法のもとで灌漑・排水から区画整理を中心とするものに変化しつつ、拡大された。さらに、道路建設をはじめとする公共事業が、農民の農外所得を生み出した。かくして、農民政党結成運動は鎮静化し、自民党の支持基盤が安定化した。

台頭する野党と革新自治体

高度成長は利益誘導政治を可能にし、一面では自民党の支持基盤を強固にしたが、もう一面ではそれを大きく掘り崩した。自民党の総選挙での得票率は、高度成長が始まった年と同じ結党以来、継続的に低下し、1967年1月29日の総選挙では49.2%と、ついに5割を割り込んだ。高度成長のもと、農村から都市に人口が移動したからであり、また、第一次産業に対して第二次・第三次産業の比重が高まった結果、農業・林業・漁業の従事者が減少し、ブルーカラーやホワイトカラーの労働者が増大したからである。自民党の得票率の低下については、共倒れを防ぐ目的で候補者を絞り込んだ結果に過ぎないという分析も存在するが、石田博英の論文「保守政党のビジョン」に代表されるように、少なくとも当時の自民党がそのように認識したことは重要である。

社会党の低迷にもかかわらず、公明党や共産党が台頭し、野党が全体として得票率を伸ばしたことは、自民党にとって脅威であった。それは特に都市部で顕著であり、1967年4月15日に行われた東京都知事選挙では、社会・共産両党が支持する美濃部売吉が当選した。過密化した都市部では、自民党政権が推し進める高度成長の歪みが露呈し、大気汚染や水質汚濁をはじめとする公害、交通渋滞、住宅難、学校不足などが深刻になっていた。都市問題の激化もあって、東京都を皮切りに革新自治体が全国に広がっていった。

総じて、1970年代半ばまでの自民党政権の政策は、革新自治体あるいは社会党をはじめとする野党の政策を後追いする傾向が強かったといえる。公害対策基本法の制定・改正や環境庁の設置といった佐藤政権の環境問題への取組み、田中内閣による老人医療費の無償化や5万円年金の実現、すなわち1973年の「福祉元年」などが、その代表的な例である。もっとも、コメの減反政策に関わる補助金の拡大、零細事業者向けの無担保融資制度であるマル経融資(小企業等経営改善資金融資制度)の創設など、利益誘導政治も行われた。とはいえ、高度成長に伴う歪みの深刻化ゆえに、革新勢力の政策的な攻勢は続いていたのであり、自民党は結党以来引き続き、それに政策的に接近することで対抗せざるを得なかったのである。

党近代化をめぐるジレンマ

同じことは、党組織についても当てはまる。社会民主主義政党に典型的にみられる組織政党モデルは依然として強固であり、第三次組織調査会の三木答申の失敗後も、自民党は党近代化を目指し続けた。例えば、第六次組織調査会は、1967年の総選挙の約2カ月前に作成した「大衆組織整備に関する答申」のなかで、「都市人口の急激な集中」による「保守、革新の得票率が逆転する可能性」を指摘していたが、そこで対策として掲げられたのは、個人後援会の党組織への編入や小選挙区制の導入などによる「近代的組織政党」の建設であった。そして、1967年半ば以降、党費を支払う党員が約4万3000人にすぎないことへの反省から、50万党員獲得運動が展開された。

党近代化を進めるために小選挙区制を導入する必要性を認めつつも、野党との関係など政治情勢上の考慮から、すぐには踏み出さないというのが、当時の自民党の支配的な態度であった。田中が先の論文で小選挙区制の効用を認める一方、「私は小選挙区制論者ではない」と書かざるを得なかったのは、こうしたジレンマを示している。しかし、自民党のなかでも、野党との対決を辞さない岸・福田派は、小選挙区制論を掲げていたし、野党との対決が不可避と思われる政治情勢になれば、自民党の大勢も小選挙区制の導入に一気に向かう可能性があった。そうした政治情勢は、1970年代に入って訪れた。

「保守の危機」に直面した田中角栄

1972年7月7日、佐藤内閣に代わって、田中内閣が成立する。高等教育を受けることなく首相の座につき、「今大閣」と呼ばれた田中は、「コンピューター付きブルドーザー」と評される政治能力を兼ね備え、非常に高い内閣支持率を得た。首相に就任する直前に出版した著書『日本列島改造論』がベストセラーになり、外交面でも長年の懸案の日中国交正常化を実現した。財政・金融面の積極政策などによって地価をはじめ物価が騰貴し、批判を招きつつあったとはいえ、田中は自信を持って議院の解散を断行し、12月10日に総選挙が行われた(写真1-1)。

より中長期的にみるならば、小選挙区制の導入による近代的組織政党の建設という方針が自民党の内部に存在し、前述したように、田中もそれを共有していたことを無視できない。しかも、共産党の進出は、組織政党の優位を示していると考えられた。田中は一九七三年元旦の機関紙の記事で、次のように語っている。「私がいちばん指摘したいのは、彼らの絶え間ない日常活動、機関紙『赤旗』を中心にした積極的な広報、宣伝活動であります。これらが一部の国民の心をとらえ、その卓越した組織力、行動力が共産党の躍進をもたらしたといわなければなりません」。田中は、1973年2月5日に開かれた素議院予算委員会でも、「小選挙区になれば、これはもういやおうなしに政党活動が主体でございます」と述べている。

小選挙区制導入の再失敗

自民党総務会は4月27日、衆議院の定数を520とし、そのほぼ6割にあたる310を小選挙区制、残りの210を都道府県単位の比例代表制で選出する並立制の導入を党議として決定した。朝日新聞の試算によると、自民党が全議席の約8割の411議席を獲得し、社会党などの野党が議席を半分近く減らすことが予想された。また、小選挙区と比例代表のそれぞれに投票する二票制ではなく、小選挙区の投票を合算して比例代表の議席を決める一票制が採用されたことも重要だった。これは小選挙区での野党の選挙協力を難しくする効果を有していた。

田中を小選挙区制の導入に駆り立てた「保守の危機」は、ますます深刻化した。石油危機に伴う狂乱物価が国民の不満を高めるなか、田中首相は、1974年の参院選で「自由社会を守る自民党」というキャッチ・フレーズを掲げ、ヘリコプターをチャーターして全国遊説を行い、タレント候補を多数擁立するとともに、なりふり構わぬ「金権選挙」と「企業ぐるみ選挙」を展開した。しかし、自民党は、追加公認を含め63議席しか獲得できず、非改選を合わせて252議席中127にとどまり、参議院で与野党伯仲に陥った。田中に対する党内の批判は一気に高まり、その金脈問題を取り上げた『文藝春秋』11月号の立花隆の論文が発表され、社会問題化するに及んで、11月26日に田中首相は辞意を表明した。1年あまり後には、ロッキード事件が発覚する。

第二章 総裁予備選挙の実現と日本型多元主義

一 三木・福田と総裁予備選挙の導入

小選挙区制なき党近代化と椎名裁定

1974年7月7日に実施された参院選は、「保守の危機」を飛躍的に高めた。田中首相を先頭に全力投球で臨んだにもかかわらず、自民党の獲得議席は前回並みにとどまり、非改選を含めて過半数より1議席だけ多い127議席となり、与野党が伯仲するに至ったからである。深刻だったのは、石油危機に起因する狂乱物価が国民の不満を高めるなか、「金権選挙」と「企業ぐるみ選挙」が強い批判を浴びたことであった。この結果を受けて、選挙戦の最中から田中の「金権選挙」を公然と批判していた三木武夫副総理兼環境庁長官と福田赳夫蔵相は、同月12日と16日に相次いで辞表を提出した。そして、両者は会談して「党の体質改善」で一致した。

かくして、三木が辞表を提出した後の記者会見で訴えたように、「党の近代化」という課題が急速に浮上していった。注目すべきは、その席で三木が「国会議員の選挙のあり方」や「政治資金の集め方、使い方」についても改革を要すると述べながら、「悪弊の根源である党総裁選挙の現状にも根本的メスを入れなければならない」と語ったことである。

田中内閣の命運も尽きつつあった。10月10日発売の『文藝春秋』11月号に掲載された立花隆「田中角栄研究」が、田中の政治資金に関する疑惑を詳細に明るみに出すと、国民の批判を背景として田中辞任の流れが党内で固まり、アメリカのジェラルド・フォード大統領の来日後の11月26日、田中は正式に首相退任を表明した。後継総裁を争ったのは、福田と三木に加えて大平正芳であった。田中と盟友関係にある大平が総裁選挙の実施を求めたのに対して、三木と福田は話し合いを主張した。さらに、いずれも離党を口にしたため、自民党は分裂合みとなった。こうしたなか、調停役として主導権を握ったのは、椎名副総裁であった。 椎名暫定政権という構想が浮上した後、大平の「行司がまわしを締めた」という批判で潰れると、12月1日、椎名は三木を総裁に推挙するという裁定を下した。清潔というイメージや党の分裂回避などとともに、三木が選ばれた理由となったのは、党近代化であった。党基本問題・運営調査会の会長でもある椎名は、この政治危機を党近代化のチャンスだと捉え、1963年に三木答申を作成し、派閥解消を訴えてきた三木を総裁に選定したのである。

総裁予備選挙の提唱

三木は、1974年7月12日に副総理を辞任した後、党近代化に向けた改革案を固めていた。 九月五日に行われた三木派の研修会では、自民党の支持率の長期低落傾向を食い止めるため、イギリス保守党に倣って国民の間に組織を拡大し、登録党員15万人弱という現状を打開しなければならないと訴えた。その梃子として三木が示したのは、総裁選挙への全党員の参加であった。アメリカの予備選挙を参考に、地方支部で推薦投票を行い、その上位者について国会議員が選挙して、総裁を決めるという案である。党員を拡大すれば、党費収入や個人献金が増え、財界との癒着を免れることもできる。また、それに伴い、政治資金規正法や公職選挙法を改正する、といった構想であった。

この当時、一年生議員であった小沢一郎も、党近代化のための総裁予備選挙の導入を唱える一人であった。小沢は、田中内閣が成立して間もない1972年9月10日に出版された『自民党改造案』で、「弊害に目をつぶって派閥を安易に温存すべきではない」と書く一方、「党の日常活動を活発にさせて、広く国民の間に根ざした近代政党に脱皮するためには、党員数の拡大と党組織の整備を急がなくてはならない」と説いた。そのためには、「自民党総裁の選出にあたって、全党員の意思を直接に反映するシステムをつくること」が必要であり、「総裁公選にアメリカ大統領選挙における予備選挙方式を導入すべきだ」と主張した。

三木による党改革とその難航

三木による改革は、全体として難航した。政治資金規正法改正案は、公職選挙法改正案とともに1975年7月4日に成立したが、企業献金をⅢ年で廃止して個人献金に切り替えるという三木の当初の案からみると、自民党内の反対ゆえにかなり後退してしまった。企業や労働組合の献金について規模別の制限を設定し、政党や政治資金団体などに一定額以上の献金の報告を義務づけ、個人献金は献金額を制限する一方で税制上の優遇措置を与えるという内容であり、政治献金の制限と収支公開の徹底が図られたとはいえ、不十分なものにとどまったといえる。

かくして、三木による総裁予備選挙の導入の試みは、失敗に終わった。退陣声明において三木ロッキード事件の真相を究明して金権体質と派閥抗争を一掃することを訴えた上で、次のように語った。「私は、在任中に総裁公選制度の改革をはかったが、残念ながら改革はまだ実現していない。私は、各地区の全党員による総裁候補の推薦選挙と、その結果に基づく上位候補者の両院の議員による決定選挙の二段階方式を提案している。この党再生の主柱である公選制度の改革は、来年1月の党大会で是非とも実現を期さなければならない。私は、諸悪の根源は現行の総公選のやり方にあるといってきた。その考えは今も変わりない」。

綱領・政綱をめぐるせめぎ合い

以上にみてきた1974年7月7日の参院選後の党近代化の動きは、網領的文書の見直しを伴った。その中心を担ったのは、10年ほど前に三木を会長とする第三次組織調査会の副会長として、労働憲章や基本憲章の制定に尽力したリベラル派の石田博英であった。全国組織委員長を務めていた石田は、参院選から2日後の7月9日の党役員会で、綱領や政綱の見直しを提案し、了承された。これを受けて、石田を会長とする「党領及び憲章に関する調査会」が設置され、20年前に制定された綱領が現状に合わなくなっているとの認識に従い、西ドイツの社会民主党のゴーデスベルク網領などを参考にしながら作業を進め、11月20日に成案を得た。 この綱領草案は、憲法改正に触れなかった。

福田赳夫による総裁予備選挙の導入

1976年12月5日の総選挙の結果は、自民党にとって衝撃的であった。公認候補の当選者数が249と、来議院の過半数を7議席も下回ったからである。追加公認を加えて260議席になったが、それでも定数511の50.9%にとどまり、参議院に続いて議院も与野党伯仲に陥った。野党では新自由クラブが一人議席を獲得し、都市部を中心に躍進したことが注目された。この結果は、ロッキード事件に象徴される金権腐敗や、三木おろしにみられる派閥抗争に対する国民の批判とみられた。これを放置しておけば政権から転落するのではないかという危機感が自民党を覆った。しかも、半年後には参院選が迫っていた。

以上にみたように、総裁予備選挙の導入によって、自民党は結成以来の党近代化、すなわち近代的組織政党の建設という目標に向けて大きく前進したかにみえた。しかし、高度成長に伴う社会変動を受け、1970年代に入って自民党では、三木や福田が主張してきた党近代化論とは異なる新たな党組織論が登場した。日本型多元主義政党論である。それは党近代化論とは反対に、派閥や個人後援会を中心とする分権的な自民党の党組織を肯定し、その延長線上に総裁予備選挙の導入を位置づけた。実は、以上にみてきた総裁予備選挙の導入は、相異なる二つの潮流の同床異夢によって実現したのであった。

二 香山健一と日本型多元主義の台頭

画期的な学者グループの提言

田中角栄が首相に就任する半年前の1972年1月、「21世紀を準備する新しい型の政党ヘ──自由民主党組織活動のビジョン」と題された100ページを超える報告書が、自民党基本問題懇談会によってまとめられた。この組織は、代表の吉村正(政治学)、飽戸弘(社会心理学)、犬田充(情報社会学)、内田満(改治学)、香山健一(社会工学)、吉村融(科学哲学)の6名の学者によって構成されたが、その前年の7月24日に発足していた自民党の組織活動調査会の依頼に応じて、約3カ月間で「最新の社会科学の研究成果」と「学際的なアプローチ」を駆使しっつ、「自民党の直面する基本問題を取り上げて、調査、検討し、組織革新の基本方向についての提言をねりあげ」たのである。

この報告書は、現在からみても、都市部を中心とする無党派層の増大という1960年代末から顕著になった現象を、かなり早い段階で的確に捉えていたといえる。

こうした世論調査で政党支持なしと回答する無党派層の増大は、高度成長下の社会構造の変化とそれに伴う国民意識の変容によって生じているというのが、この報告書の分析であった。すなわち、都市化の進展、生活水準の上昇、情報化社会の到来、ポスト産業社会への転換、国際化の進展といった社会構造の変化が、若年層を中心として個人主義的な態度を広げ、価値観を多様化させている。そこでは社会規範の拘束力が弱まり、是々非々的な態度が強まる。「支持なし層」の増大は、日本が第二の明治維新ともいうべき歴史的転換期を迎え、国民意識が変容していることの反映であるが、自民・社会両党をはじめとする諸政党は、それに十分に対応できていないというのである。

それに対応して出現すべき「新しい型の政党」とは何か。この報告書が示しているのは、社会の隅々にまで情報のネットワークを張りめぐらせ、多様な国民の要求を先取り的につかみ、政策と日常活動を通じて柔軟かつきめ細かく対処する一方、日本が目指すべき未来のイメージを提示し、その理想や目標に向けて国民を統合していく、そうした国民に根差した分権的な政党である。そこには、急速な社会変動の結果、従来の画一的で全体主義的な民主主義とそのもとでの保守と革新の対立が陳腐化し、「真に自由な、個人の創意と多様性を前提としたリベラルなデモクラシー」に移行しつつあるという認識が存在していた。 ここで重要なのは、自民党こそが、このような「新しい型の政党」の最短距離にいると評価されたことである。

この報告書の作成を主導したのは、香山健一だとみられる。自民党基本問題懇談会の代表で党中央政治大学院長でもあった吉村正は、前述したように、イギリス保守党をモデルとする党近代化論者であり、この報告書がまとめられた以降も、「党員の組織政党へ脱皮すべし」と論じている。それに対して香山は、この報告書が提出される直前、自民党の機関紙で「新しい型の政党組織に生まれ代わる」ことを訴え、半年後にも報告書を引きながら、「自民党の活力の源泉の一つは、この党の多様性にある」と説いているからである。ただし、香山も、その翌年、田中内閣が推進した小選挙区制の導入に賛成し、党近代化の観点から中選挙区制は望ましくないという発言を行ったように、この段階では旧来の発想から完全に抜け出すには至っていなかった。

「日本の自殺」と『英国病の教訓』

香山健一とはいかなる人物だったのか。香山は学生時代、東京大学教養学部学生自治会の委員長や全学連(全日本学生自治会総連合)の委員長を務め、砂川闘争や警職法反対運動を指揮し、共産党から除名された後、共産主義者同盟(ブント)を結成した人物であり、安保闘争後は、清水太郎らとともに保守の立場に転向していた(写真2-1)。学習院大学で社会工学や未来学を研究し、学際的かつ最先端の社会科学にも通じており、一九六八年末に発表した論文「情報社会論序説」では、文明史的な観点から情報革命について論じ、「新しい時代の人間は、なによりも狂信を拒否し、多様な意見の存在を尊重する自由な精神の持主でなければならない」と説いていた。

重要なのは、香山の批判が、共産党にとどまらず社会党を含む革新勢力全体、ひいてはそれに引きずられがちな自民党にも向けられたことである。『文藝春秋』1975年2月号に発表されたグループ1984年の論文「日本の自殺」は、その代表例といえよう。この論文は、香山が単独で執筆した可能性が高いようであるが、ローマ帝国の没落を例に取り、文明を自壊させる「自殺のイデオロギー」として、平等主義を攻撃する。戦後民主主義は、そうした悪しき擬似民主主義の一種であり、イデオロギー信奉、画一的一元的全体主義、権利の一面的強調、建設的提案なき批判、大来迎合主義としてあらわれていると主張したのである。 ここで反面教師として示されたのは、人々が物質的欲望を肥大化させ、国家の福祉への依存を強め、自立の精神と気概を失ったローマ帝国であり、「繁栄と都市化が大衆社会化状況を出現させ、それが大来の判断や思考力を衰弱させることを通じて、「パンとサーカス」の活力なき「福祉国家」へと堕落し、エゴと悪平等主義の泥沼に沈んでいくという恐るべきメカニズム」に日本も陥りつつあると告した。

1978年に入って香山は、この「日本の自殺」の延長線上に、それまで書き溜めていた文章をまとめて『英国病の教訓』を出版した。そこにおいてイギリスは、もはや日本にとってのモデルではなく、以下のような「福祉国家病」のメカニズムの悪しき代表例として批判された。

日本的集団主義の称揚

香山は、こうした議論を単独で展開したわけではなかった。グループ1984年にみられるように、1970年代に入って保守系の学者のネットワークが形成されていったのであり、香山はその中心人物の一人として大きな役割を果たしたのである。国会で与野党の議席数が伯伸し、自民党が政権から転落する危険性が高まるなか、保守再生に向けた知的プロジェクトが、いわば共同作業として精力的に進められたのであった。 そのようなネットワークの一つの核になったのは、1969年にウシオ電機の牛尾治期社長が設立した社会工学研究所である。

以上要するに、「追いつき型近代化」の終わりという時代認識に基づき、近代的な集権国家とともに個人主義を批判し、西欧をモデルとする近代主義から封建的と批判されてきた日本の伝統的な集団主義を再評価した上で、それを様々な政策的手段を用いて補強しつつ新たに発展させていくというのが、彼らの保守再生のビジョンであった。確かに「イエ社会」を肯定的に捉え直したとはいえ、高度成長を通じて生まれた「新しい中間階層」、政治的にみれば都市部に多い無党派層の取り込みを企図したことからも明らかなように、決して戦前への回帰を目指したのではなく、分権的な「日本型福祉社会」を作り上げ、集権的な福祉国家を乗り越えていくという展望を示したのである。香山らにとって、それは「近代化」に代わる「現代化」であった。

日本型多元主義政党の発展という主張

ところで、自民党の基本問題懇談会の報告書以降、その機関紙誌に頻繁に登場するようになっていた香山は、前述したように、1975年3月28日に国民協会からの改称を決めた国民政治 協会の理事に就任した。佐藤誠三郎によると、そのきっかけとなる提言をまとめた財界の議会政治近代化委員会にも、香山は協力したようである。確かに、その提言は、「自由民主党がその多様性と多元主義的な組織の特質を十分に生かしながら、新しい型の組織的国民政党に急速に脱皮していくことが強く要望される」と述べ、都市部の「支持政党なし」層に深く根を張ることを主張しており、香山の影響を読み取ることができる。ところが、「開かれた国民組織」を目指す国民政治協会の試みが挫折に終わったことは、既に触れたとおりである。

新自由クラブの結成から自民党の党改革へ

ロッキード事件の発覚後、三木が真相究明を進めると、かえって「三木おろし」の動きが起こり、派閥抗争が激化した。三木が進めた総裁予備選挙の導入も、難航していた。1976年6月13日の河野洋平の自民党離党、25日の新自由クラブの結成は、香山が前記の論文「腐敗の研究」を書いた直後のことであった。佐藤誠三郎によると、香山は、新自由クラブの綱領や基本政策などの数筆に関わったという。その領の最初は、「われわれは、自由で多様な個人の自立と連帯に基づく、公正で活力ある自由社会の創造と、より秩序ある自由経済体制の発展を図り、簡素で効率のよい政府の実現をめざす」というものであった。自民党の改革に限界を感じた香山は、リベラル派の河野を代表として結成された都市型政党の新自由クラブに期待を寄せ、協力したのである。

党現代化を唱えた大平正芳

以上にみてきた香山と同じ理由から、総裁予備選挙の導入を中心とする党改革を進めた自民党首脳がいた。福田総裁のもとで幹事長を務めた大平正芳である。

すでに1970年代初頭から、大平は日本が大きな歴史的転換期に差し掛かっているという認識を示していた。明治以来の国家目標である欧米先進国へのキャッチ・アップを達成し、自力で独自の道を歩む創造的発展に向けて転換しなければならない。1971年4月17日、池田勇人が創設した宏池会の第三代会長に就任し、次の総裁選挙に立候補することを決意した大平は、その半年後の宏池会の研修会で「日本の新世紀の開幕」と題する演説を行い、こうした認識を「戦後の総決算」という言葉を使って表現した。そして、その2年後の宏池会の研修会では、「文化の時代の到来」という考えを表明した。経済中心の「近代化の時代」から文化重視の「近代を超える時代」への移行というのが、大平の時代認識であった。 それゆえ大平は、三木や福田が長年主張してきた党近代化論に同意しなかった。後に首相となった大平の首席補佐官を務めた長富祐一郎は、次のような大平の発言を記録している。「党の近代化をしっかりやらにゃいかんというとる。わかっちゃいないな」「近代を超えなければならないときだというのに」。

三 大平・中曽根と日本型多元主義の隆盛

初の総裁予備選挙における大平の勝利

以上にみてきたように、総裁予備選挙の導入をはじめとする自民党の党改革は、三木や福田の党近代化論と大平・香山らの日本型多主義の二つの潮流の同床異夢によって実現したが、最終的に勝利を収めたのは後者であった。

前述したように、福田の総裁就任後、派閥は全て解散したが、とりわけ田中・中曽根・三木の三派は、政策研究集団と称して従来と同様の活動を続けた。そして、1977年7月10日の参院選では、各派とも旧派閥事務所に選対を設け、資金面その他で自派の候補者を全力で支援した。また、同年11月28日の福田内閣の改造においても、従来と同じく派閥ごとに閣僚ポストが割り振られた。そして、総裁予備選挙の実施に向けて、各派は党員・党友を獲得すべく、一斉に派閥活動を公然化させた。党員の飛躍的な増大は、総裁予備選挙での勝利を目指す派閥の党員獲得競争の結果であった。

大平ブレーンと九つの政策研究会

ここで注目すべきは、この総裁予備選挙のプロセスを通じて、大平と香山らの関係が緊密化したことである。

このようにして作成されたのが、総裁予備選挙に際しての大平の政見「政治に複合力を」であった。「自由民主党の活力の源泉は、党内に自由で多様な見解がつねに活き活きと息づいており、それが無数のパイプを通して日本社会のあらゆる階層、職能、地域と結びついていることである」。この結語の一文は、ブレーンとなった香山らの日本型多元主義を明らかに反映している。大平は、具体的な政策についても香山らの提案を取り入れ、「総合安全保障戦略を確立する」「民間経済の活力ある展開をはかる」「家庭を中軸とする日本型福祉社会を実現する」「田園都市を核に地方分権の政治を確立する」という四つの方針を打ち出した。

保守復調の明確化

少々話を戻そう。総裁予備選挙の導入をはじめとする党改革は、前述したように、1976年1月5日の総選挙で、参議院に続いて衆議院でも与野党伯仲に陥ったことから、党勢を回復すべく実施されたものであったが、短期間のうちに大きな効果を発揮した。自民党の支持率は、1977年2月8・9日に行われた朝日新聞の世論調査で、保守合同以来最低の38%まで低下したが、4月25日の「党改革・躍進総決起大会」から1ヵ月後の5月24・25日の調査では、41%まで回復した。そして、自民党は、7月10日の参院選で保守系無所属を含め66議席を獲得し、非改選と合わせて過半数を超える125議席を確保した。与野党逆転が予想されていただけに、これは自民党の勝利とみなされた。

1979年4月8日には統一地方選挙が実施され、前年の京都府と沖縄県に続いて、東京都と大阪府で革新自治体が崩壊した。その背景には自民・公明・民社の三党の提携が進んだことがあったが、自民党が東京都で12年ぶり、大阪府でも8年ぶりに知事の座を奪還したことは、いわゆる保守復調を広く印象づけた。前年末に発覚した汚職事件のダグラス・グラマン事件などの影響によって頭打ちの状態にあった自民党の支持率も、8月29・30日の世論調査で52%を記録し、過去最高となった。こうしたなか、大平首相は9月7日、来議院の与野党伯仲状況を打破すべく、解散に踏み切った。来議院の安定多数である271議席以上の獲得を見込んでいたといわれる。 ところが、10月7日の総選挙の結果は、予想に反して自民党の敗北に終わった。

3月6日に明るみに出た浜田幸一のラスベガス賭博事件などをきっかけとして、4月2日には福田・中曽根・三木の非主流三派を中心とする自民党刷新連盟が発足した。5月16日、野党が提出した内閣不任決議案が、福田・三木両派の席によって可決され、その3日後、大平が解散に踏み切った。この「ハプニング解散」の結果、史上初めての衆参ダブル選挙が実施されることになった。 ところが、派閥抗争は、これ以降急速に沈静化していった。中曽根派の離脱、参議院自民党の要請、財界の圧力などが重なり、反主流派も新党結成に踏み切れず、選挙に向けて挙党態勢が整えられた。そして、6月12日に大平首相が急死すると、「弔い合戦」の名のもとに党内の結束が強められ、有権者の同情もあって、22日の来参ダブル選挙で自民党は圧勝した。定数511の来議院において公認候補だけで284、追加公認を含めると287議席を獲得し、参議院でも前回から4増の70議席を得て、251議席中137を占めた。ここに、長く続いた「保守の危機」は終わりを告げた。香山健一は、自民党の機関誌の座談会で、「自民党はずっと農村型政党だと言われ続けてきたのが、いよいよ都市型政党になり得る条件を持ってきた」と指摘し、「“80年体制”がはっきり姿を現してきた」と語った。

総裁予備選挙の見直しと中曽根康弘の勝利

大平の急死と来参ダブル選挙の大勝を受けて、自民党では後継総裁の選出が急務となったが、派閥抗争を避けるため、話し合いによって行うことで合意が成立した。機関紙によると、様々な会合を通じて、「派閥解消よりも派閥の効用を残しつつ弊害を除去すべきであるとの意見に落ち着いた」のでありこ福田派が推した大平派の鈴木善幸総務会長に田中派が同調し、中曽根派や三木派も追随した結果、7月15日、党大会に代わる両院議員総会で、全会一致により鈴木が総裁に選ばれた。鈴木首相は「和の政治」を標榜し、17日に派閥均衡内閣を発足させた。田中・鈴木・福田という三大派閥を中心とする挙党体制が成立したのである。

中曽根と旧大平ブレーンの協力

自民党総裁に就任した中曽根は、11月26日に首相に指名され、その翌日、内閣を発足させた。二階堂進が幹事長に留任し、後藤田正晴が官房長官に起用されるなど、中曽根政権の中枢を握ったのは、総裁予備選挙での勝利を導いた最大派閥の田中派であった。ロッキード裁判を抱えていた田中角栄は、そうすることで政治的影響力を確保しようとしたのであるが、マス・メディアなどから「田中曽根内閣」や「影内閣」といった批判が巻き起こった。もう一つ中曽根首相を支えた主体として重要なのが、香山健一をはじめとする旧大平ブレーンであった。

中曽根は当時、第一次答申の理念に関して、「フリードマン式の自由主義というものを完全に日本に行うことは、必ずしも適当でない」と述べている。「ケインズ流でやってきて、公債が大きくなりすぎ財政的破綻の寸前まできた。……手術のメスとして、当面はフリードマンを活用していい。しかし、日本の本来の体質から見れば、やはり混合経済的体質の必要性は厳然としてある」。そして、「日本の本来の体質」とは、「集団意識の強さ」であった。「だから全学連で国会の周りに押し寄せた諸君も、卒業して就職し、結婚して、しばらく経つと最も忠誠なる社員になって、自民党に黙って入れてくれる」。つまり、中曽根は、香山らと同じく日本的集団主義を擁護したのであり、あくまでも限定的な手段として新自由主義的改革を用いたにすぎなかったということができる。

ところで、中曽根と旧大平ブレーンが直接結びつく上で主導的役割を果たしたのは、劇団四季の主宰者の浅利園犬であった。香山健一らは、鈴木首相に大平が設けた九つの政策研究会の報告書を継承し、実行に移してもらいたいと考えていたが、受け入れられず、意気消沈していた。そこで、浅利らを通じて中曽根が報告書を詳細に読み込んでいるのを知ると、感激し、積極的に協力したのであった。公文役平によると、かつて自由党に対抗する改進党などの第二保守党に所属し、それゆえ保守傍流と呼ばれていた中曽根は、「あの政策を継承するのが、私が保守本流になることだ」と語っていたという。

全盛期を迎えた日本型多元主義

中曽根内閣は発足後、なかなか安定しなかった。自民党は、1983年6月26日の参院選で、前回から2減、前々回より2増の68議席を獲得し、一応の勝利を収めたが、田中角栄がロッキード事件の第一審で実刑判決を受けた後、12月18日に行われた総選挙では250議席と大敗し、保守系無所属の九人を追加公認してようやく過半数を確保した。責任論が高まるなか、新自由クラブとの連立や田中六助の幹事長起用などによって態勢を整えることに成功した中曽根は、福田・鈴木の二人の元首相が公明・民社両党を巻き込んで進めた二階堂擁立工作を床け、1984年10月31日の両院議員総会で総裁再選を果たした。この間、香山らブレーンは、総選挙の実施や総裁再選の戦略などについて助言する一方、臨時教育審議会(臨教審)などの諮問機関に加わり、議論をリードした。

中曽根首相は、1986年6月2日に衆議院を解散し、7月6日の来参ダブル選挙で歴史的な大勝を収めた。自民党は、来議院において公認候補だけで300議席、追加公認を入れると304議席を獲得し、参議院でも前回より6増の74議席を確保した。これを受けて、連立を組んでいた新自由クラブは解党し、河野洋平を含め大部分が自民党に復党した。8月30日の自民党の軽井沢セミナーの講演で、中曽根がこのダブル選挙を「1986年体制」のスタートと位置づけたことは、よく知られている。自民党の勝利は、今までの顧客を確保した上で、「ウイング(翼)を左に伸ばし」、社会党右派くらいまで支持層を広げた結果であり、今後とも「決して右寄りではない」都市部のサラリーマンや若者などの浮動票を得るためには、変化に対する柔軟対応力が必要だというのが、中曽根の主張であった。

さらに香山は、自民党の次年度の運動方針を作成するためのヒアリングで、「中庸の政治的感覚」の重要性を説き、次のように述べた。「私はむしろ憲法制定四十周年を機会に「自民党は護憲政党である」ということを明確に宜言したうえで、変える必要がある部分があれば、国民の大多数のコンセンサスを前提として、21世紀に向けてより現実的な憲法に改善していく、というふうにしたほうが、はるかに政治的に賢明だと思う」。この発言に応じるがごとく、中曽根は、1987年8月29日に行った自民党の軽井沢セミナーの講演で、靖国問題にも触れながら、「右バネがはね上がってはならぬ、左の過数派が眺染してはならぬ、われわれは中庸の道を行く」と語った。中曽根内閣は、日本型多元主義の黄金時代であった。

第三章 政治改革と自社さ政権

一 小選挙区制の再浮上と小沢一郎

日本型多元主義に基づく行政改革

1986年7月6日の来参ダブル選挙での自民党の歴史的大勝は、香山健一や佐藤誠三郎ら中曽根首相のブレーンを理論的指導者とする日本型多主義の頂点を形成することになった。自民党はその勝因を詳細に分析することで政権の基盤を安定化させようと、政治学・社会学・統計学など各分野の研究者に委嘱して報告書「昭和61年衆参同日選挙の分析」をまとめた。中曽根総裁の直接の指示に従い、佐藤が主査となって、丸1年かけて作成したのである。

1986年の衆参ダブル選挙の後の自民党は、日本型多元主義政党として、完成の域に達しつつあった。党員数がほぼ200万人を超える水準で推移する一方、派閥を解消すべきという主張が影を潜め、中曽根の後継を争った竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一をはじめ、派閥の存在を積極的に肯定する意見が支配的になった。当時の五大派閥のなかでも質と量ともに著しい発展を遂げ優位に立ったのが、田中派であった。田中派は、機関中心主義や事務総長ポストの設置にみられるように、いち早く機構整備を行うとともに、族議員を巧みに配置して陳情処理を大規模かつ精密に行い、「総合病院」と呼ばれた。これを各派閥が模倣した。そして、田中派の大部分を継承して経世会を結成した竹下登が、中曽根から後継総裁に指名され、1987年11月6日に竹下内閣が成立した。

政治改革論の登場とリクルート事件

ところが、日本型多元主義に基づく漸進的な改革は、自民党のスポンサーの財界にとって不満の対象になりつつあった。率先して声をあげたのは、住友電気工業会長の井正夫であった。第二臨調に専門委員として参画し、歳出の削減を検討する第一特別部会長、続いて許認可や補助金などの問題に取り組む第三部会長を務め、国鉄再建監理委員会の委員長として国鉄の分割・民営化にも携わった井は、以下のように書き、行政改革を超える政治改革の必要性を訴えた。「政治家の中には、補助金を切られたり、許認可権を削られたりしたら、田がなくなるので、もう“おしん行革”はコリゴリという人もいる。これには、がっかりした。今、日本が大きな転換期にある時に、政治のあり方を一度、根本的に考える必要がありはしないか」。

もっとも、日本型多化主義者も、政治改革の必要性を否定しなかった。実は、「政治臨調」の設置を求める社会経済国民会議の提言を受けて、自民党の機関誌にいち早く政治改革に関する論考を寄せたのは、香山健一であった。中曽根内閣のもとで臨教審の委員として教育改革にあたった香山は、行政改革や教育改革、消費税を導入する税制改革など、一連の改革の総仕上げとして、政治改革を進めることを主張した。しかし、その目的は世論の動向に対応することであり、「政治改革を推進する政党だというイメージを打ち出すこと」でしかなかった。国際化への対応も唱えられはしたが、そのために香山が示した提案は、国会論争のあり方の見直しにとどまった。もちろん、選挙制度改革に消極的だったのは、派閥や個人後援会を肯定的に捉え、中選挙区制を支持していたからであった。 こうしたなか、日本型多元主義者に大きな打撃を与える事件が起きる。1988年6月18日に発覚したリクルート事件である。

「政治改革大綱」と小選挙区制の機能転換

リクルート事件の発覚を受けて、政治改革の必要性が論じられるようになると、竹下首相は対応を迫られ、酒費税を導入する税制改革関連法案が成立した3日後の12月27日、自民党内に総裁直属の機関として政治改革委員会を設置した。竹下の求めに応じて政治改革委員会の会長に就任したのは、後康田正晴であった。後康田は、1989年2月1日の第3回会合で、「政治家が高い倫理観を持つのは当然だが、基本的には選挙制度の仕組みの中に問題がある」と発言するなど、持論である小選挙区比例代表並立制の導入に向けて、議論をリードした。2月7日には井正夫を招き、社会経済国民会議が作成した提言をもとに意見交換を行っている。

自民党の「政治改革大網」は、リクルート事件をきっかけとして国民の政治不が強まり、各種の選挙などを通じて厳しい批判が自民党に向けられていると指摘した上で、政治倫理の確立、政治資金制度改革、選挙制度改革、国会の活性化、党組織の改革、地方分権の六つの分野にわたる提言を行ったが、その中心は選挙制度改革に置かれた。「政治とカネ」の問題の大部分は、現行の中選挙区制の弊害に起因しているという認識ゆえである。

かつて鳩山内閣や田中内閣は、最大政党に有利な小選挙区制を導入することで、左派主導の社会党や共産党の進出を阻止し、自民党政権を継続させることをねらった。ところが、ここでの小選挙区制は、政権交代が起きうるほどまでに政党間の競争を強めるための手段として位置づけられている。そして、この文書が「痛み」という言葉を使ったのは、政権交代の現実的可能性を認めていたことを示している。実際、野党第一党の社会党は、この3年ほど前に「新室言」を採択し、政権担当政党に脱皮することを鮮明にしていた。連合の結成に至る労働戦線の統一が進み、冷戦が終焉に向かうなか、階級対立と保革対立が弛緩し、与野党をまたぐ政界再編が噂されるようになっていた。このような状況変化を受けて、小選挙区制に期待される機能は、自民党長期政権の維持から打破へと大きく転換したのである。

難航する政治改革

ところが、政治改革の取組みにもかかわらず、自民党に対する逆風は止まなかった。リクルート事件で自らの疑惑を追及された竹下首相は、支持率の低迷もあって退陣を余儀なくされ、外相を務めていた宇野宗佑が1989年6月2日の両院議員総会で総裁に選出され、首相に就任した。しかし、宇野首相は自らの女性問題でたちまち窮地に陥り、7月23日の参院選は、リクルート事件、消費税、首相のスキャンダルという三点セットによって、自民党の歴史的な大敗に終わった。自民党は38議席しか獲得できず、非改選の73を加えても111議席にとどまり、過半数の12を大きく割り込み、楽参両院の「ねじれ」を招いた。他方、社会党は、「土井ブーム」と呼ばれた土井たか子委員長の人気と連合を媒介役とする野党間の選挙協力とを背景として、自民党を遥かに上回る52議席を獲得した。

小沢一郎の『日本改造計画』

以上のプロセスを通じて政治改革の主役に躍り出たのが、小沢一郎であった。1989年8月8日に海部が総裁に就任すると、竹下派(経世会)の金丸信会長の後押しによって47歳という若さで幹事長に就任した小沢は、「選挙制度にメスを入れなければならない」と語り、政治改革に強い意欲を示し、盟友の羽田政を選挙制度調査会長に据えた。その2カ月後に開かれた自民党の全国研修会では、「政治改革をなし遂げるためには一つの内閣を犠牲にするぐらいの覚悟が必要だろうと思っております。海部総理・総裁も「政治改革」をスローガンに掲げた以上、なんとしてもやり抜かなければならないと思います」と述べ、海部首相を叱咤激励している。

小選挙区制の導入を唱えるようになった理由として小沢は、三木答申を出した第三次組織調査会で「選挙制度小委員会」の委員長を務めた父親の小沢佐重喜の影響を挙げているが、後藤田と同じく田中内閣の経験も大きく影響したとみられる。前述したように、田中内閣の成立直後に出版された「自民党改造案』で小沢は、小選挙区制に一切言及していないからである。それ以上に重要なのは、カネのかからない選挙を実現するために小選挙区制を唱えていた小沢が、中曽根内閣のもと、党総務局長として1983年の参院選と総選挙を取り仕切り、衆議院議院運営委員長として野党との交渉を担い、自治大臣を経て竹下内閣の官房副長官に就任し、日米貿易摩擦の交渉に関わるなど、権力の中枢を歩むなかで、自民党長期政権のあり方に限界を感じ、それを改革する手段として小選挙区制の導入を位置づけるようになったことである

この当時、小沢は自民党幹事長でありながら、「自民党単独政権でやってきたもろもろの矛盾が限界に達した」と語り、「現在いちばんの課題は選挙制度の改正を含む政治改革の実現だ」と断言した。これまで万年野党の座に安住してきた社会党が野党再編に踏み込んでいけるとは思えない。そう考える小沢は、「政権交代を実現させるためには、僕はやはり選挙制度の仕組みを直していくしかないと思います」と述べ、「小選挙区比例代表制の導入」による「二大政党体制への移行」を主張し、「自民党が野党になるだろうことも覚悟しなきゃできません」とすら発言した。ところが、小沢は、1991年4月7日の東京都知事選挙の敗北の責任をとって幹事長を辞任せざるを得なくなった。それが、政治改革関連三法案が審議未了・廃案に終わった大きな原因であった。

この「日本改造計画」が出版される頃までに、政権交代の条件はいよいよ整いつつあった。第ーに、1989年11月21日の連合の結成である。社会・民社両党の主たる支持団体であった総評と同盟が最終的に合流したことで、野党再編に向けた動きが本格化しただけでなく、総評の解散によって階級主義的な労働運動が凋落し、自民・社会両党を巻き込む政界再編の可能性が高まった。第二に、冷戦の終焉である。1989年12月3日に米ソ首脳が冷戦の終結を宣言し、1991年12月26日にはソ連が解体したため、アメリカの冷戦政策をめぐる保守と革新の対立が意味を失った。階級対立と保革対立がともに事実上終わった結果、自民党を政権党、社会党を野党第一党とする1955年体制の基礎が掘り崩されたのである。

二 政治改革の実現と日本型多元主義の敗北

香山健一の政治改革論

以上にみてきたように、1988年12月27日の政治改革委員会の設置に始まる自民党の政治改革の取り組みは、1989年5月23日の「政治改革大網」と1990年12月25日の「政治改革基本要繝」の党議決定を経て、1991年8月5日に政治改革関連三法案を国会に提出するまでに至った。法案は最終的に審議未了・廃案になったが、少なくともいったん小選挙区比例代表並立制の導入が自民党の方針として確立したのである。これは、中選挙区制のもとでの派閥や個人後援会の活力を高く評価してきた日本型多元主義が、自民党の内部でヘゲモニーを失ったことを意味した。

日本新党の結成と中選挙区連記制

香山が『文藝春秋」の1992年7月号の論考で、「既成政党の分割・民営化」と並んで主張したのは、「志のある人々が自由に新党を結成」して「既成政党の厚い壁を破る」ことであった。これも自民党のブレーンとしては大胆な発言であったが、そればかりか、次のように書いた。「私は細川護熙前熊本県知事の日本新党結成という勇気ある行動を高く評価し、これを積極的に支持する」。実は、日本新党の結成に向けて、細川が『文藝春秋』の前月号に発表した「「自由社会連合」結党宣言」を執筆したのは、香山であった。香山は細川をブレーンとして支えただけでなく、参院選の候補者探しにも協力し、佐藤誠三郎の『自民党政権』の共著者として知られる松崎哲久を口説いた。それを受け入れた松崎は、事実上のナンバー・ツーとなる政策部会長に就任する。

香山が執筆に関わった細川の「「自由社会連合」結党賞言」には、日本型多元主義の影響が濃厚にみられる。「保革対立」とその基盤である「政・官・産複合体としての集権的国家システム」が、「追いつき型近代化」と「東西冷戦」の終焉によって歴史的役割を終え、「新しい分権的、開放的な国家システム」の創造が必要になっているという認識が、まさにそうである。

細川が提携相手として考えていたのは、武村正義を中心とする自民党の若手改革派であった。リクルート事件の発覚後、武村が政治改革を求める発言を行ったことをきっかけに、鳩山由紀夫ら10名ほどの若手議員が集まって「ユートピア政治研究会」が結成された。その提言を契機に自民党の政治改革委員会が発足し、武村が事務局次長として「政治改革大綱」の作成にあたるなど、政治改革の推進力となった。細川とのパイプ役を務めたのは、1985年の新政網の作成に尽力した田中秀征であり、日本新党が躍進した参院選の三週間後に行われた細川と田中の雑誌の対談から、両者の水面下での接触が始まった。自民党の若手改革派は、日本新党との即時合流には消極的な姿勢を示したが、それとの提携を前提とする新党の結成に向けて密かに準備を進めていった。

自民党による政治改革の再失敗

日本新党が躍進した1992年7月26日の参院選で、自民党は70議席を獲得し、非改選と合計した議席で過半数を回復できなかったとはいえ、勝利を収めた。ところが、それから間もなく、宮沢内閣は激震に見舞われる。暴力団への融資などが焦げ付き、特別背任事件として追及されていた東京佐川急便から、金丸信が5億円もの裏金を受け取っていたことが報じられ、8月27日に副総理を辞任したのである。さらに、東京地方検察庁が9月28日に政治資金規正法違反で金丸を略式起訴し、翌日、東京簡易裁判所が罰金20万円の略式命令を出すと、あまりにも軽い処分に世論の批判が巻き起こり、10月14日、金丸は議員辞職に追い込まれた。これを背景として、政治改革の機運が一気に高まった。

金丸は議員辞職に合わせて経世会会長からも退いたが、竹下派の内部では後継争いが深刻化していった。それまで金丸の支持を得て派閥の運営を掌握してきた小沢一郎らが羽田致を擁立したのに対して、竹下元首相をバックとする反小沢グループは小渕恵三を推した。最終的に10月28日の派閥の総会において小渕会長が決まったが、これを不服とする小沢グループは同日、「改革フォーラムニー」(羽田派)を結成し、ついに最大派閥の経世会が分裂することになった。少数派に転落した小沢は、この抗争を「サル山のサルがボスを選ぶのと同じ類の話」ではなく「改革派と守旧派の対立」だと喧伝し、自らの正当性を訴えた。。政治改革は竹下派の分裂と連動し、大きなうねりへと変わっていった。

小選挙区比例代表並立制への合意

第126回国会が第121回国会と違っていたのは、この先である。1993年6月17日に社会・公明・民社の三党が政治改革の断念を理由として内閣不任決議案を提出し、翌日に採決に付されると、羽田派などが造反した結果、賛成225、反対220をもって可決され、宮沢首相が衆議院を解散した。これを受けて、政界は一気に流動化した。まず、不信任案に反対票を投じた自民党の若手改革派が同日、10名で離党することを表明し、21日に武村を代表とする「新党さきがけ」を結党した。これに誘発されて、羽田派を中心とする44名も22日に離党に踏み切り、翌日、新生党を結成し、羽田が党首、小沢が代表幹事に就任した。この二つの新党の発足によって、すでに総選挙の前に自民党は過半数を割り込んでしまった。

キャスティング・ボートを握った日本新党とさきがけは、自民か非自民か決めかねていた。事実、楽議院の解散後にインタビューを受けた日本新党の細川代表は、「自民党政権の延命に手を貸すことはない」と述べる一方、「既成政党とは一線を画する」という結党以来の方針からいって、自民党の中枢にいた新生党とも「直結するようなことは、われわれにとっては自殺行為に等しい」と語っていた。迷いに迷った日本新党とさきがけは、さきがけの田中秀征の提案に従い、自民と非自民の不毛な二者択一を回避すべく、ある決断をする。総選挙から5日後の7月23日、「政治改革政権の提唱」を行い、その具体案に賛同する政党と連立を組むことを発表したのである。

武村によると、自民党が全面的に提唱を受け入れた場合には、後藤田正晴を首班とする大連立を想定していたという。だが、結局、それは幻に終わった。

後退を重ねた「穏健な多党制」という目標

以上の結果、小選挙区比例代表並立制の導入に関する合意が、連立与党と自民党を含めて成立したが、これに関する日本型多主義者の見解は分かれた。佐藤誠三郎は、「今から何をいっても、おそらくもう遅すぎるのであろう」と嘆きながら、並立制への反対を訴え続けた。それに対して、「既成政党の分割・民営化」を主張していた香山健一は、政党本位になることを批判しつつも、並立制に希望を見出そうとした。すなわち、今後のシナリオとして、一党優位政党制の復活、二大政党制への転換、多党制への移行の三つを示した上で、最も実現可能性が高く、かつ望ましいのは三番目のシナリオだと主張し、自民・社会両党が派閥単位に分裂して政策協定に基づく多党連立を繰り返した後、三大政党に収斂していくという展望を示した。

政治改革の内容を決定づけた細川と河野の合意について、自民党は「海部内閣当時のわが党案に非常に酷似したものとなった」と評価した。しかし、最大の勝者は、小選挙区制の導入による政治的リーダーシップの強化を目指し、海部内閣の際に自民党幹事長として政治改革を推進した小沢一郎であった。すでに小沢は、小選挙区比例代表並立制による総選挙の実施に向け、二大政党制の一翼を担う新党結成への第一歩として、連立与党の続一会派の設立に動いていた。細川は、武村から「「穏健な多党制」と言ってきたことと違うではないか」という非難を受けながらも、小沢に同調した。この細川の小沢への接近は、香山の最終的な敗北を意味したといえよう。かくして日本型多元主義の時代は終わりを告げたのである。

三 自社さ政権とリベラル派の優位

自社さ政権はなぜ成立したのか

細川内閣の連立与党の内部では、与党代表者会議を通じて主導権を握る小沢一郎新生党代表幹事と市川雄一公明党書記長の「一・一ライン」に対し、さきがけや社会党が反発を強めていた。政治改革関連四法改正案の成立から1ヵ月あまり後の4月8日、東京佐川急便からの借入金などの疑惑を追及された細川首相が辞意を表明すると、非自民・非共産党派の連立の枠組みは急速に瓦解する。

長年の政敵であり、かつ議席も少ない社会党の党首を首相に担ぐのは、自民党にとって大きな決断であった。自民党の亀井静香副幹事長と社会党の野坂浩賢国対委員長のラインを使って連立工作を進めた森幹事長は、万年与党から野党に転落した自民党の窮状について、こう回想している。「毎日、離党届を受け取るのが幹事長の仕事のようなありさまだった。官僚の自民党への対応も冷淡になった。それまで局長が説明に来ていた案件は課長が来るようになった。課長が来ていた案件は課長補佐に格下げしてきた。陳情客の足もばったり途絶え、自民党本部は閑散としていた」。しかも、翌年には統一地方選挙と参院選が控えていた。自民党の政権奪還への執念が、村山内閣の成立につながったのである。 しかし、自民・社会両党が手を結ぶことができたのは、労使の階級対立が強み、冷戦が終焉したという時代背景を抜きには考えられない。

棚上げされた「自主憲法の制定」の党是

右派のリベラル派への接近の背景には、唯一の保守政党ではなくなった自民党の生き残り戦略が存在していた。1994年1月21日の第58回党大会で採択された自民党の運動方針は、日の丸と君が代に関して「法制化し、民族の誇りとして後世に伝えていく」と述べる一方、「軍事大国路線を否定するわが党の主張を明確にし、他党との違いを明らかにしておく」と表明していた。離党者が相次ぐ当時の自民党にとっては、同じ保守の枠内で競合する新生党との差異化が急務であり、日本の文化や伝統の尊重を謳いつつ、軍事大国化のための憲法改正を批判したのである。それが護憲を党是とする社会党との連立を可能にした。そして、自社さ政権材立にあたっての三党の合意文書にも、「現行憲法」の「尊重」や「軍事大国化の道を歩まず」といった文言が盛り込まれた。

YKKと加藤紘一の台頭

自民党は、政策についても社会党やさきがけとの協調に努め、譲歩した。最初の試金石となったのは、防衛費であった。自民党の7.8%増と社会党のマイナスが対立するなか、自民党から防衛族の山崎拓、社会党から左派の岩垂寿喜男、さきがけから小沢化が防衛調整会議に集まり、徹底的に話し合った結果、0.9%増で妥結した。村山内閣では、自民3、社会2、さきがけ1からなる省庁別調整会議と課題別調整会議が設置され、そこでまとまらなかった案件を、自民3、社会3、さきがけ2で構成される政調会長レベルの与党政策調整会議において調整していく、というボトム・アップの手続きが採用された。連立与党で圧倒的多数の議席を占める自民党が、いずれの会合でも過半数にならないよう一歩引いた点が重要であった。 このような政策決定プロセスで鍵を握ったのは、自社さ政権の成立とともに自民党の政調会長に就任した加藤紘一であった。

加藤が自社さ政権で重要な役割を果たしたのは、YKKの中心人物として反小沢の旗頭であったことも大きかった。3年半ほど前、1990年12月31日の加藤の発案によって、初当選が同期の山崎拓・小泉純一郎との三人の会合が始まった。宮沢・渡辺・安倍の三派それぞれのなかで「事務総長的な立場」にあった彼らの目的は、小沢幹事長を中心とする竹下派への対抗であった。加藤は次のように書いている。「小沢一郎氏の全盛時代で経世会がすべての力を握っていた。そんな中、我々のように少し意地を張る酒飲み会があってもいいんじゃないかという思いも強かった」。この三人の提携関係は、それぞれのイニシャルを並べてYKKと呼ばれた。

新進党の伸長と無党派層の増大への対応

自社さ政権を成立に導いた主力は政治改革への反対派であったが、小選挙区比例代表並立制を覆すことまではできなかった。村山によると、区割り法案が未成立であったため、首相就任直後に解散・総選挙を行い、事実上白紙に戻すことを考えたが、「いくらなんでも無理だろう」ということになり、実行しなかったという。区割り法案は、村山内閣のもと、1994年11月21日に成立した。その半月後の12月10日、新たな選挙制度のもとで二大政党の一角を占めるべく、新生・公明・日本新・民社などの野党が合流して、新進党が結成された。海部俊間が党首、小沢一郎が幹事長に就任し、178名の来議院議員と36名の参議院議員を擁した。

自社さ政権の終わり

自民・新進両党への二大政党化が進むと、社会党とさきがけは厳しい状況に追い込まれた。特に社会党は、1995年7月23日の参院選で、大勝した6年前の議席を大きく減らして、16議席と惨敗を喫した。そこで、村山は首相の座を河野自民党総裁に譲ることを申し出たが、さきがけの抵抗や河野の離党歴などを問題にした小渕派の反対によって実現しなかった。最終的に年明けになって、村山首相は辞意を表明し、1996年1月11日に橋本内閣が成立した。自社さの三党連立の枠組みは維持されたものの、2年半ぶりに自民党が首相ポストを取り戻したのである。橋本首相は、行政改革を政策の柱に据え、総選挙における自民党の公約として具体化を図った上で、解散を断行した。

自民党にとって新進党の解体と新民主党の結成は、勝者総取りの小選挙区で競合する相手が右から左に移行した点で大きな意味を持った。参院選を目前に控えた6月1日、社民党とさきがけは自民党に対して閣外協力の解消を申し入れ、自社さの枠組みの終了が決定された。それは自民党が左に広げていたウイングを縮めることを意味した。全体として自民党には、右に向けての大きなドライブがかかりつつあった。そして、7月12日の参院選で、単独過半数の回復を目指した自民党が大敗を喫すると、それは決定的なものになっていく。政治改革のきっかけとなったりクルート事件の発覚から、10年後のことであった。

第四章 二大政党化と自民党の右傾化

一 リベラル派の凋落と「加藤の乱」

自民党の右傾化への底流

これまで述べてきたように、自社さ政権の中心を担ったのは加藤紘一をはじめとするリベラル派であったが、その発足にあたっては右派の内部で対応が分かれた。すなわち、中曽根康弘、渡辺美智雄らが保保連合を主張して反対する一方、亀井静香や石原慎太郎などが積極的に協力した。しかし、1997年4月17日に駐留軍用地特別措置法の改正案が新進党の協力を得て成立したのをきっかけに、亀井らは自社さ派から保保派に転じた。前年の総選挙で大敗した社会党とさきがけが閣外協力に切り替えたことが、その直接的な原因であったが、それに加えて自社さ政権のもとでリベラル派の優位に対する右派の不満が蓄積していたことも重要な要因であった。

日本会議は、その設立の4ヵ月前の1月30日に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」を通して、支持層を広げることに成功した。教科書問題を専門とする「つくる会」を組織的に支えたのは、右派系団体の総本山たる日本会議であったが、そのスポークスマンの役割を果たしたのは、薬害エイズ問題で官僚批判を展開した漫画家の小林よしのりであった。教科書を執筆している左派の進歩的知識人は、官僚と同じエリートであり、世間一般の常識に反して空理空論を弄ぶ守旧派にすぎない。「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」などは自虐的な虚構であり、一般の民来たる日本兵たちを汚名から救わなければならない。こうした「つくる会」のポピュリスト的な主張は、従来の右派が取り込めなかった都市部の無党派層、なかんずく若者層にも浸透していったのである。

保保派の勝利としての自自連立

1998年7月12日の参院選は、自民党にとって衝撃的な結果となった。自民党は44議席にとどまり、非改選と合わせて252議席中103と過半数を大幅に割り込んだ。前年の11月17日に北海道拓殖銀行が破綻し、22日に山一証券が自主廃業を発表するなど、バブル崩壊に伴う経済危機が深刻化していたにもかかわらず、橋本内閣は財政構造改革に固執し、積極政策への転換が遅れたため、強い批判を浴びたのが敗因だといわれる。他方、旧民主党が新進党の一部の後身、すなわち反小沢の保守系政党と旧民社党グループの新党友愛と合同して成立した新民主党は、27議席を獲得した。投票時間の2時間延長や不在者投票の要件緩和などによって投票率が上昇するなか、都市部の無党派層の支持を集めた結果であった。

小渕内閣の官房長官として、野中は必死だった。小沢一郎を「悪魔」と呼び、自社さ政権を支えてきた野中は、「ひれ伏して」でも国会審議に協力してもらいたいと小沢に呼び掛けていた。そして、8月下旬に小沢と野中の会談が実現し、自自連立に向けて動き出した。注目すべきは、この会談を仲介し、同席したのが無井静香だったことである。結果として野中や古賀は保保派に乗り、竜井とともに水面下で協議を進めていった。なお、9月1日には、総裁選挙で梶山静六を支持した平沼赳夫、中川昭一、衛藤晟一ら毛井グループの21名が、三塚派に退会届を提出し、新たな派閥を結成した。三塚派を継承した森喜朗は、「亀井グループはもともと中川一郎さんや石原慎太郎さんに近く、政治理念もかなり右寄りで、清和会主流とは少し距離があった」と振り返っている。

自民党の政策転換と公明党との連立

公明党との連立を視野に入れながら、自由党と連立を組んだ自民党は、それまでの政策を大きく転換させた。 第一に、積極政策への転換である。経済危機の深刻化を受けて、すでに橋本内閣のもとで財政構造改革は転換を余儀なくされていたが、小渕内閣は1998年11月27日に召集された第144回臨時国会に財政構造改革の凍結法案を提出した。

第二に、右傾化である。自自公の連携により参議院の過半数の議席を確保した小渕内閣は、第145回通常国会で、従来であれば簡単には実現し得なかったような法律を次々と成立させた。5月24日のガイドライン(新しい日米防衛協力のための指針)関連法、7月29日の憲法調査会設置法(改正国会法)、8月9日の国旗・国歌法、8月12日の改正住民基本台帳法と組織的犯罪対策三法である。このうち、日の丸・君が代を法制化する国旗・国歌法や、憲法を専門に議論する場を国会に初めて設ける憲法調査会設置法は、日本会議およびそれに近い右派の議員集団の日本会議国会議員懇談会や憲法調査委員会設置推進議員連盟が強く求めてきたものであった。世紀末に向けて、戦後的価値を重視するリベラル派の優位が急速に失われたのである。

不人気な自自公政権

1998年7月12日の参院選で惨敗した自民党は、参議院の過半数を確保すべく自自公連立に向かう一方、民主党への対抗策について検討を進めた。小渕総裁を会長とする「参議院選挙反省・前進会議」や党改革本部といった党の公式の作業に加え、当選3回以下の若手議員の有志が、1998年10月20日に「民主党政策研究プロジェクトチーム」を発足させた。注目したいのは、共同座長として中間報告の取りまとめにあたった安倍晋三の次の発言である。「自民党にも、いわゆる左から右まである程度幅があります。例えば日の丸、君が代の問題でも、これを法制化すべしと言い、学校でも掲揚・斉唱を義務化すべしと言う考えから、尊重するということでいいのではないかという意見まである。だが、その幅にはおのずと限度があります。その点が民主党との大きな違いと言えるでしょう」。

安倍からみて、民主党は二つの点で問題があった。一つは社会党から自民党の出身者までが寄り集まった政策的な雑多性であり、もう一つは国家や伝統を軽視する左派的傾向である。そうした問題を抱える民主党に対抗して、自民党は右派を中心に政策的な疑集性を高めるべきだというのが、安倍の基本的な主張であった。

鎮圧された「加藤の乱」

自由党の連立離脱が決まった三党首会談の翌日の4月2日、心労が重なっていた小渕首相は脳梗塞で倒れ、青木幹雄官房長官、森喜期幹事長、野中広務幹事長代理、鹿井静香政調会長、村上正邦参議院議員会長の5名が相談して、森を後継にすることを決めた。それと並行して、参議院の過半数を確保すべく自由党の分裂工作が進められ、新たに結成された保守党と自民・公明両党の連立によって、4月5日に森内閣が成立した。国会開会中の緊急事態であり、総務会や両院議員総会などの党内手続きを踏んだとはいえ、不透明なプロセスで首相が決まったことは強い批判を招いた。そして、旧小渕(橋本)、森、江藤・竜井の三派に支えられる森首相は、5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会に出席し、「日本の国は、天皇を中心としている神の国」という発言を行った。

11月9日、読売新聞の渡辺恒雄社長が主催する政治ジャーナリストの会合に出席した加藤は、森首相による内閣改造を阻止する決意を示すとともに、野党が提出する内閣不信任決議案に反対しない可能性に言及した。加藤によると、自ら政権の座に就くことは考えておらず、総裁を交代させるきっかけを作ろうとしたのだという。「森首相に対する批判は非常に強い。国会内でもほとんどの人が、「いまの森政権じゃだめだ」と言っている。そのなかで森首相で参院選を迎えることは、自民党の大敗を意味する。さらには総選挙に追い込まれ、そのときに自民党は、足腰が立たないほど負ける。そういう危機感があった」。17日になると、加藤は不肩任決議案に賛成すると明言した。YKKの盟友の山崎拓も、加藤に同調する姿勢を示した。

加藤の最大の誤算は、自派の結束を保てなかったことにあった。最初の願きは、宏池会の前会長で元首相の宮沢蔵相が、総選挙後の首班指名の際に加藤に決起を促していたにもかかわらず、一転して批判的な態度を示したことであった。不信任決議案に久席ではなく賛成しなければならないと加藤が考えるようになったのは、派内が分裂して反対票が増え、可決に必要な賛成票が不足してしまうのではないかという焦りからであった。しかし、そうすると、除名処分を覚悟しなければならなくなる。かくして加藤派の内部の裂は一気に深まった。野中が離党勧告を行った同日、派内で加藤の動きに批判的なグループが会合を開き、宏池会名誉会長の宮沢のほか、座長の堀内光雄、加藤の政権構想の政策責任者の丹羽雄哉、国対委員長を務める古賀誠らが参集した。こうして加藤は窮地に追い込まれていった。

加藤は、まとめ役の谷垣様→などから報告を受け、最後まで切り崩しに耐えた同志たちも、不宿任決議案に賛成票を投じるのが困難になったことを知った。そこで、加藤と山崎の二人だけでも賛成票を投じようと考えたが、小里真札から「〔自民党を除名され〕無所属になった会長では宏池会は守りきれません」と言われ、加藤自身も矢席を決意した(写真4-1)。総務会長を務めていた小里は、野中幹事長と話し合いを重ね、久席であれば処分しないことを確認していた。それでも未練が残る加藤は、賛成票を投じるべく国会に車で向かったが、結局、途中で引き返した。11月21日未明に衆議院本会議の採決に付された不信任決議案は、加藤派21名、山崎派18名が席した結果、賛成190、反対237で否決された。「加藤の乱」が鎮圧された瞬間であった。

加藤に近い政治信条を持っていた野中は、こう振り返っている。「加藤さんは、最後に残ったリベラル派の首相候補として値千金の価値があった。ここで、加藤さんを潰してしまうのはなんとしても惜しかった」。

加藤はなぜ失敗したのか

それにしても、なぜ加藤派は不信任決議案の賛成でまとまれなかったのか。いくつかの理由が挙げられよう。まず、加藤が同志との十分な意思疎通を久いていたことは確かである。加蕨に最後まで従った小里貞利や森田一の証言をみても、加藤が相談なく行動を始めたことが分かる。また、宏池会の「保守本流」という意識も、野党の不信任決議案に同調することを妨げた。加藤から離反した堀内光雄は、「保守本流の宏池会としては絶対にしてはいけない行為」と述べている。これは単なる弁明ではなかった。小里によると、池田勇人、大平正芳、鈴木善幸、宮沢喜一といった首相を生み出してきた宏池会は、「保守本流の歴史と伝統を重んじ、党内に軸足を置いて同志の糾合に努めることを、かねて申し合わせていた」。加藤派は、かつての小沢ら羽田派と違って、自民党という枠に囚われていた。

宮沢内閣の際の小沢との違いとしては、政治改革に伴う制度的変化も大きかった。小選挙区制の導入によって二大政党の候補者間の対決が強まったため、自民党から離党して民主党と提携することが困難になっていた。「加藤の乱」を鎮圧した野中は、次のように書いている。「私はまず党の職員に命じ、加藤派と山崎派に所属する議員の選挙区事情を調べさせた。……調べてみると、両派の議員の八割が地元で民主党候補と戦っていた。小選挙区では一選挙区で党が公認する候補は一人。つまり加藤・山崎派が民主党と合併して新党を作った場合、両派の議員の多くは党の公認を受けることができなくなる。これでは選挙戦を戦うことは難しい。合併せずに連立を組むとしても、選挙区で一つしかない席を争った直後に協力などできっこない。「加藤派の独立は無理だ」私は確言した」。

加藤は民意を読み間違えてしまった。加藤の次の述懐は興味深い。「私の行動が、あくまで森さんという党のリーダーを代えることを主眼にしていたのに対し、多くの国民は私の行動を違った認識で見ていたことです。つまり、多くの国民は、自民党政治そのものに終止符を打ち、政界をリシャッフルして、新たな日本の政治にしてほしいと、私の行動に期待していたんです」。しかし、自民党政治の打破を求める民意は、「加藤の乱」が終わった後も消え去らなかった。それを巧みに掴んだのが、YKKの一員でありながら、清和会の会長として森首相を支え、「加藤の乱」の鎮圧に走した小泉純一郎であった。参院選が間近に迫るなか、「古い自民党をぶっ壊す」と叫ぶ小泉が総裁に選出され、五年半もの長期政権を築いたのである。

二 小泉純一郎と新自由主義的改革

小泉政権の成立

森内閣の支持率は、「加康の乱」の後も不祥事などが続いたことで低迷し、2001年2月17・18日の朝日新聞の世論調査では、九%まで落ち込んだ。森首相が3月10日に辞意を表明すると、「加藤の乱」の鎮圧に回った小泉純一郎が立候補を表明した。小泉は、森派会長として森内閣を支えているにすぎず、政策とは無関係だと公言していた。しかも、小泉は郵便・郵貯・簡保の郵政三事業の民営化を持論とし、国営を維持すべきと考えていた加藤以上に急進的な「小さな政府」論者であった。山崎によると、小泉は「一匹狼的」である半面、「大衆的に人気を博する魅力」を持ち、「思い切った着眼と行動を行なう人」であり、それゆえ郵政民営化を打ち出せたのだという。「加藤の乱」に失敗した加や山崎も、小泉の支持に回った。

国会議員の数で劣る小泉は、予備選挙で勝利を収めて本選挙につなげる戦略を立て、国民に人気がある田中真紀子と二人三脚で全国遊説を行った。そして、「古い自民党をぶっ壊す」と叫び、橋本派に体現される派閥政治や利益誘導政治の打破を訴えると、巨大なブームが巻き起こった。加藤紘一は次のように回想している。「2001年の自民党総裁選が始まった4月の月曜日、小泉氏から渋谷のハチ公前での応援演説を要請され、山崎氏と田中真紀子氏らとともに三人で賞伝カーの上に立った。その光景はいまでもはっきりと覚えている。事故は起こらないのかと、心配してしまうほど、人が集まっていたのだ。……それはまるで、5ヶ月前に私が裏切ったことに対する鬱憤がすべてここに集中したような光景だった」。

新自由主義的改革の断行と限定的な右傾化

総裁選挙における小泉の勝利は、「国民の「小泉ガンバレ」という雰囲気が強まり、それを党員・党友そして国会議員が受け止めた結果」であった。そう考える小泉は、「陳情に来たり、あるいは政策提言に来る人たちというのは、一般国民に比べればごく少数です」と指摘した上で、「自由民主党という政党は、今多数派となっている無党派層をおろそかにしてはいけません」と述べ、「どの政党も支持していない層から共感を得られるような政策を出していく必要があります」と語った。それでは、無党派層の支持を得られる政策とは何か。小泉の答えは、「構造改革なくして景気回復なし」という方針であり、「自助と自律の精神」であった。かくして、政府の介入を抑制し、市場メカニズムを重視する新自由主義的改革が断行されていった。

こうした小泉の右派的姿勢は、政治学者の大獄考夫によると、総裁選挙に際して行われた右派への配慮の結果であり、付け焼刃でしかなかった。仮に小泉が右派であったとしても、男らしさや毅然たる態度といったスタイルの側面が強く、「根の浅いもの」でしかなかった。実際、小泉政権期には、靖国神社とは別の国立の戦没者追悼施設を検討する「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が福田康夫官房長官の私的諮問機関として設けられ、2002年12月24日に「国立の無宗教の恒久的施設が必要」という報告書をまとめた。また、首相の私的諮問機関の「皇室典範に関する有識者会議」が、2005年11月24日に女性天皇および女系天皇を容認する報告書を提出している。それらは右派の猛反発を受けたのであった。

自民党の組織はどう変容したか

無党派層の支持を調達すべく「古い自民党をぶっ壊す」と叫んで総裁に選出され、首相に就任した小泉は、実際に自民党の党組織を大きく変容させた。福田・田中両派の抗争以来、森派のライバルであった橋本派を主要敵に据え、派閥を無視して党役員や閣僚の人事を行う一方、公共事業費の削減、民営化や規制緩和などの新自由主義的改革を断行し、利益誘導政治の解体を進めていった。それを可能にしたのは、いうまでもなく、1994年の政治改革による小選挙区比例代表並立制の導入であった。同士討ちをもたらす中選挙区制が廃止された結果、各候補者は派閥よりも党への依存を強め、個人後援会を培養する必要性が低下し、利益誘導政治が後退した。小泉首相は、こうした自民党の組織的変容に立脚するとともに、それを加速させる役割を果たしたのである。

小泉政権下の自民党は、党員を減少させ、支持団体との関係を希薄化させたが、政策決定過程においても、省庁や業界団体と結びつく族議員などの影響力を排除すべく、トップ・ダウンの傾向を強めていった。総裁選挙の際に首相公選制の導入を公約に掲げた小泉は、「大統領的首相」として振る舞おうと試み、橋本行革によって強化された首相の権限を最大限活用し、自らが議長を務める内閣府の経済財政諮問会議を使って、政治的リーダーシップを発揮した。

民主党に対抗する安倍晋三の党改革

総裁に再選された小泉は、総裁と幹事長を別の派閥にする「総幹分離」の慣例を25年ぶりに破って、当選3回で49歳の安倍晋三を幹事長に抜擢した。それまで官房副長官を務めていた安倍は、北朝鮮による日本人の拉致問題で毅然とした態度をとり、国民の人気を集めていた。このサプライズ人事は、10月10日の来議院の解散に向けた布石であった。しかし、11月9日に実施された総選挙で、自民党は公示前から10少ない237議席にとどまった。それに対して、総選挙の1ヵ月あまり前に自由党と合流していた民主党は、公示前から40増の177議席と躍進し、特に比例代表の議席では自民党を上回った。自公保三党で275議席と絶対安定多数を確保したとはいえ、二大政党化が進み、その一角として民主党が台頭してきたのである。

これに強い危機感を抱いた安倍幹事長は、党改革に着手した。複数の公認候補の擁立や無所属候補の追加公認が可能であった中選挙区制が廃止され、小選挙区制に変わったことで、世襲議員の増加にみられるように自民党の新陳代謝が損なわれ、有能な人材が民主党に流れてしまっている。こう考える安倍は、12月2日に自らを委員長とする「党改革検証・推進委員会」を発足させ、その半年後、候補者の空白区や補選挙では原則として公募により候補者を決めると明記する「中間提言」をまとめた。この間、紫議院埼玉八区の補選挙で、公募による候補者が劣勢を跳ね返して勝利するという成果を挙げていた。「中間提言」には、政治資金の透明化、シンクタンクの創設、戦略的広報体制の確立、無党派層との連携強化なども盛り込まれた。

郵政選挙での圧隣と抑制的な憲法改正案

安倍に比べると、小泉の戦略は単純であった。「私は首相に就任し、郵政民営化や公共事業削減など、支持団体が反対する政策を取り上げてきた。団体が戸惑っても無理はない。だが、どんなに強固な組織を持っても、無党派層の支持を得られる政党でないと、政権を維持できない」。 こう参院選の直後に語った小泉は、新自由主義的改革を加速することで無党派層の支持を回復すべく、全国特定郵便局長会の反対を無視して、郵政民営化を強引に推し進めた。まず9月10日に党の了承を得ないまま「郵政民営化の基本方針」の閣議決定を行い、2005年4月27日には、総務会の内容上の了承を受けずに郵政民営化法案を閣議決定し、国会に提出した。ようやく6月28日、党議拘束をかけるために総務会で了承を取り付けた。しかし、それは全会一致の慣例を破る多数決による決定であった。 ここで注目すべきは、新自由主義的改革に対する批判が、橋本派ばかりでなく右派の間で強まっていたことである。

三 安倍晋三と右傾化の進展

挫折した「戦後レジームからの脱却」

小泉首相は、党改革に尽力してきた安倍晋三を後継者にしようと、郵政民営化法案の成立を受けて内閣改造を実施し、官房長官に起用した。自民党では、小泉の成功の結果、国民の人気が高く、「選挙の顔」となり得ることが総裁の最大の条件と考えられるようになり、他に名前の挙がった麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫よりも、安倍が小泉後継として最もふさわしいと考えられた。実際、次の首相に誰が望ましいかを問う新聞などの世論調査で圧倒的な支持を集めた安倍は、2006年9月20日の総裁選挙で、国会議員票403のうち267、地方票300のうち197を獲得して、大差で麻生と谷垣を破った。26日に成立した安倍内閣の最初の支持率は、小泉内閣には及ばなかったとはいえ、戦後歴代3位の63%を記録した。 安倍の総裁選挙での標語は、ナショナリズムを強調する「美しい国、日本」であり、公約の最初に憲法改正を謳った。

新自由主義的改革に対する批判にも増して深刻だったのは、郵政民営化法案に反対票を投じて離党した造反議員の復党問題を通じて、安倍の右派的な理念が新自由主義を支持する人々の失望を招いたことである。造反議員には右派が多く、その強固な地盤が次の参院選で勝利するために必要だったこともあり、安倍は誓約書の提出という条件付きで、「美しい国」づくりの仲間として復党を認めることを決め、2006年12月4日、誓約書の提出を拒否した平沼赳夫を除く11名の復党が実現した。しかし、これは新自由主義的改革からの後退と受け止められ、内閣支持率の低下を招く結果となった。それにもかかわらず、安倍は落選議員の復党を認めないという方針を覆して、翌年3月9日に衛藤晟一を復党させ、参院選で擁立したのであった。

大連立の失敗による右派の復権

安倍首相は、参院選の惨敗にもかかわらず続投を表明し、8月27日に党役員人事と内閣改造を行い、麻生太郎を幹事長、与謝野馨を官房長官に起用した。幹事長に就任した麻生は、「小泉さんが勝って、事実、地方組織を含めて自民党をぶっ壊した結果、これまで自民党を支持した地方組織のほとんどが痛い目に遭うことになった」と述べ、「地域活性化と党組織の底上げ」を訴える一方、安倍首相と相談しながら、平沼越夫の復党を目指した。要するに、新自由主義から脱却し、右派の結集を進めることで、立て直しを図ろうとしたのである。ところが、安倍首相は、それから2週間後の9月12日、突如として辞意を表明した。直接的な原因は健康問題であったが、民主党の小沢代表に呼びかけた党首会談を断られたことが理由に挙げられた。

実は、すでに8月下旬から福田と小沢の間で、大連立に向けた動きが水面下で始められていた。 自民・民主両党を仲介したのは、読売新聞グループ本社の渡辺恒雄会長であったが、福田からは社会保障制度改革に関して、「第二臨調」あるいは「円卓会議」的な組織を設けて、両党の参加を実現したいという希望が伝えられていた。福田は首相に就任すると、最初の所表明演説で、国民生活の安定を最優先の課題とし、社会保障制度の整備や格差問題への対応を進めると表明するとともに、野党との話し合いを通じて政権運営にあたる考えを示した。福田によると、就任直後の記者会見で自ら「背水の陣内閣」と命名したのは、大連立に向けた自民党内へのメッセージであり、さらに大連立の先には、新党結成を含む政界再編が視野に入っていたという。

この間、総裁選挙で麻生太郎を支援した議員を中心として、「真・保守政策研究会」が結成されていた。中川昭一が会長、無所属の平沼赳夫が最高顧問に就任し、「総理の座を辞したことによって、安倍政権が掲げた保守の理念そのものが色褪せてしまうこと」を危惧していた安倍晋三が陰で支えた。そして、大連立の失敗とその後の政治情勢は、民主党に融和的なリベラル派を後退させ、右派を復権させることになった。福田首相は、総選挙の実施に向けて、8月1日に麻生太郎を幹事長に起用した上で、9月1日に辞任を表明した。これを受けて22日に総裁選挙が実施され、麻生が圧倒的な勝利を収めた。24日に首相に就任した麻生は、総選挙で民主党と対決すべく、「真正保守再生」の幕開けを宣言した。

野党への転落とアイデンティティの模索

この時期、安倍は次のように発言している。「自民党の中で保守と言われる人達は2割で、リベラルな加藤紘一さん的な人達が12、3%、あとは流れに乗る」。すでに新自由主義の凋落は明らかであった。自民党の地方組織や業界団体の間で不満が蓄積していたところ、貧富や都市と地方の格差が拡大し、固定化しつつあるという批判が、小泉政権の末期から強まり、参院選の敗北を経て、2008年9月15日の世界金融危機の発生によって決定的なものとなったからである。しかし、かつてのような利益誘導政治にも回帰できないとすれば、どうやって次の総選挙に向けて民主党と対決するのか。結局、前述した安倍の言葉を使うと、「リベラル」な傾向が強い民主党との差異を示しつつ、自らの組織を固めるべく、「保守」の立場を強調するという「流れ」になるしかなかった。

安倍の圧力と新たな憲法改正案

ところが、民主党政権の登場に強い危機感を抱く右派からすれば、このような谷垣執行部の動きも決して十分とはいえなかった。中川昭一の落選と死去を受けて、安倍晋三が会長に就任していた「真・保守政策研究会」は2010年2月5日、「創生日本」に名称を変更した。平沼赳夫が引き続き最高顧問を務め、幹事長には衛藤晟ーが就いた。その衛藤によると、「自民党が再生するためには、なによりも自民党らしさを取り戻さなければならない。そのためには自民党を支える基盤となる「保守の中核体」を何としても残しておかなければならない」という危機感が高まっていた。そこで、安倍が会長に就任するとともに、国会議員による研究会から脱皮して、街頭演説や講演会の実施、地方議員の組織化などを行う運動体に転換したのである。

安倍は昔内閣を「陸湿な左翼政権」と呼んだ。韓国併合100年の首相談話、尖閣諸島沖中国漁船衝突事件への対応、朝鮮学校の授業料無償化などを激しく攻撃していた創生日本は、2011年3月11日の東日本大震災に際しても、民主党と大連立を組むことに強く反対した。他方、谷垣総裁は、結果的に首相の提案を拒否したとはいえ、「場合によっては連立も考える必要がある」と判断していた。安倍・谷垣両者の間には、深刻な溝が存在していたのである。昔内閣の次の野田佳彦内閣にも、民主党政権である以上、安倍の批判の矢は向けられた。「野田政権は鳩山、菅政権のような左翼政権ではないと思っていたが、それは間違いだった。……谷垣総裁に必要なのは気迫だ。国のためにこの政権は何としても倒すという気道であり、自分はこれだという信念の発露が必要になってくる」。

安倍の再登板から政権復帰へ

安倍は意気盛んだった。「自民党は保守政党だという位置付けを強調すべきです。平成22年に出した自民党の新しい綱領は、非常に保守的な内容で書かれており、先日とりまとめた憲法改正草案も、前文に「日本国は国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と記し、国防軍も明記しました。ところが、そのことが一般の国民にほとんど伝わっていないのです。支持率が回復しない要因の一つが、ここにあると思います。……私が谷垣総裁をはじめ党執行部に注文を付けたいことは、もっともっとこの理念を自分自身の念、情念の発露として国民に訴えかけ、伝えていくべきではないかということです」。

谷垣が出馬断念を表明した2日後の9月12日、安倍は総裁選挙への立候補を正式に明らかにした。安倍にも躊躇があった。創生日本の活動を通じて地道に地方を回り、草の根レベルから「安倍待望論」が出始めていたとはいえ、ちょうど5年前に政権を投げ出したことに対する根強い批判が存在していた。石破茂や石原伸晃の後塵を拝して3位になるという予想が多く、その場合、安倍の政治生命が絶たれる可能性もあった。一度総裁を務めた人物が再チャレンジして当選した前例もなかった。それゆえ、側近の意見も真っ二つに割れた。

五年間の雌伏の時を経て、安倍には政策的な準備もあった。最も重要な意味を持ったのは、経済政策である。やがてそれは、積極的な金融緩和、公共事業などの財政出動、規制緩和をはじめとする成長戦略を「三本の矢」とし、デフレからの脱却と経済成長を目指す「アベノミクス」として定式化される。安倍が積極的な金融緩和を本格的に唱え始めたのは、東日本大震災の発生から二カ月後、「増税によらない復興財源を求める会」という名称の議員連盟の会長に就任して以降であるが、それを中心に据えながら財政出動と成長戦略の両方を実施することで、新自由主義的改革をめぐる対立を止場する。そして、デフレからの脱却と経済成長を実現して国力を高め、「戦後レジームからの脱却」を成し遂げる。安倍は右派的な理念のもと、新たな政策パッケージを提示したのであった。

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おわりに

利益誘導政治からどう脱却するか

派閥と個人後援会を基礎とする利益誘導政治からの脱却の模索の歴史として、約60年間にわたる自民党政治の変容を描き出す。この「はじめに」で提示した視角に沿って、以下、本書の内容を要約し、自民党の現状について若干の分析を行いたい。

利益誘導政治とは、政府の政策決定に影響力を持つ政党や政治家が、選挙での票や政治資金を得る見返りとして、特定の個人・地域・企業・団体などに個別的な利益を供与する政治手法である。自民党が企業・団体などから多額の政治献金を受ける一方、経済成長の果実を自らの支持基盤の農村部や農民・中小企業者などに配分する代わりに票を獲得し、長期政権を続けたことは確かである。

そもそも利益誘導政治は、中選挙区制のもとで当選を目指す個々の国会議員のミクロな行動の総和という側面が強かった。しかも、高度成長などを通じて都市化と工業化が進展し、農民や中小企業者といった伝統的な支持層が減少するなか、利益誘導政治だけで長期政権を続けることは困難だと考えられた。それゆえ、マクロな観点に立脚する党執行部は、1955年の結党以来、財界などの要請に応じて国民経済的に合理的な政策を行うためにも、有権者の支持を維持・拡大するためにも、利益誘導政治からの脱却を模索した。そのための鍵として考えられたのが、国会議員を中心とする分権的な党組織の改革であり、派閥や個人後援会にみられる議員政党からの脱皮であった。

一般的に言って、政党の組織は、決の二つの軸を用いて分類することができる。まず一つは、集権─分権という軸である。つまり、党首を中心とする執行部の権限が強いか、弱いかである。もう一つは、国会議員─党員・支持団体という軸である。すなわち、党組織の構成要素が国会議員に偏っているか、それとも党員や支持団体を重視しているかである。以上の二つの軸を組み合わせて用いると、①から④の四つの類型を示すことができる。この四つの違いはあくまでも相対的なものでしかないが、このうち①の国会議員を中心とする分権的な党組織が、議員政党にあたる。それに対する代替選択肢が②から④であり、それぞれ自民党の歴史を通じて試みられてきた。

二つの党近代化論の相克

自民党は、階級対立と保革対立を背景として、1955年に結成された。結党に際しては、左派の主導で統一した社会党に対抗し、その政権獲得を阻止するため、国会議員が構成する分権的な議員政党から脱皮して、多数の党員を持ち集権的な組織政党を建設しなければならないと考えられた。それによって利益誘導政治から脱却することは、造船疑獄に対する批判や国際収支の危機に伴う緊縮政策の実施などからみても必要であった。図でいえば、①の議員政党から②の組織政党への転換が図られたのである。その際にモデルとされたのはイギリスであり、とりわけ保守党であった。 当時の日本で強かった西欧の近代を規範とする近代主義の一種であり、組織政党こそが近代的な党組織とみなされ、その実現は党近代化と呼ばれた。

近代的組織政党の建設をリードしたのは、保守合同の立役者で初代幹事長に就任した岸信介であった。岸の主導のもとで自民党は、戦前への回帰という意味で復古的な色彩が濃い保守の理念を打ち立て、「自主憲法の制定」を掲げるとともに、小選挙区制の導入を図った。ところが、小選挙区制は、階級対立などが強固に存在する以上、政権交代ある二大政党制をもたらさず、自民党政権を長期化させることが予想された。それゆえ社会党が強く反対し、自民党の反主流派の動きもあって、鳩山内閣の小選挙区法案は失敗に終わった。

1960年の安保紛争の発生によって、社会党の脅威が強く印象づけられると、党近代化が再び着手された。憲法改正や小選挙区制の導入を強行しないと明言する池田勇人首相が、その責任者に起用したのは、三木武夫であった。

1960年代後半に入ると、自民党の国政選挙での得票率は五割を割り込むようになり、地方では都市部を中心に革新自治体が相次いで誕生した。高度成長によって、派閥や個人後援会を基礎とする利益誘導政治が発展する一方、都市化や工業化により自民党の支持基盤が弱まったのである。しかも、依然として自民党では、利益誘導政治の象徴たる田中角栄を含め、近代的組織政党の建設という目標が共有されていた。そこで、1972年の総選挙で敗北し、与野党逆転が予想されるようになると、それを阻止すべく田中内閣は小選挙区制の導入に動いた。しかし、そのあまりに露骨な試みは、鳩山内閣の際とほぼ同じパターンで失敗に終わった。

日本型多元主義の時代

ところが、総裁予備選挙の導入は、党近代化に批判的な人々によっても唱えられた。香山健一ら日本型多元主義者である。彼らが中心的な課題にしたのは、自由と多様性の擁護であり、階級対立や保革対立の弛緩を背景に増大した都市部の無党派層の取り込みであった。そうした観点からみて、西欧の社会民主主義政党を理念型とする党近代化は望ましくなく、自民党に活力を与えている派閥や個人後援会を積極的に評価した上で、そのエネルギーを密室政治や金権腐敗ではなく、政策上の切磋琢磨や党組織の拡大に向かわせるべきである。このように考える香山らは、日本型多元主義政党の発展を目指して、①の議員政党を③の分権的でありながらも党員や支持団体を重視する党組織に変えていくことを主張し、総裁予備選挙の導入を説いたのである。 結果的にみるならば、総裁予備選挙の導入を通じて勝利を収めたのは、日本型多元主義者であった。

日本型多元主義者は、利益誘導政治から脱却できない自民党長期政権の限界を認識しながらも、党組織を集権化させる小選挙区制には批判的であり、それとは違う政治改革論を唱えた。分権的な党組織を持つ三つ以上の政党が連立を組みかえつつ政権交代を行い、変化に柔軟に対応していく「穏健な多党制」である。こうした観点から香山は、日本新党の結成を支援し、中選挙区連記制を説いた。ところが、1993年の総選挙によって、日本新党の細川護熙代表が非自民連立政権の首相に就任し、そのもとで政治改革が行われたにもかかわらず、香山の構想は実現しなかった。細川がそれにこだわりを持たなかったことに加え、連立与党から造反者が出たこともあって、自民党の主張が大幅に受け入れられ、小選挙区制を基調とする選挙制度が導入されたのである。

選挙プロフェッショナル政党化

1994年の小選挙区比例代表並立制の導入を中心とする政治改革は、自民党を大きく変貌させていく。しかし、その直後に生じたのは、小沢が主導した政治改革に対する反動であり、自民・社会・さきがけの三党による連立政権の成立であった。小沢の強引な政治手法への反発ゆえに、三党間ではコンセンサス重視の政策決定がなされ、憲法改正を唱える小沢への対抗もあって、自民党では河野洋平総裁をはじめ社会党に融和的なリベラル派の優位が確立した。階級対立や保革対立の弛緩を背景として政界再編が起き、対抗政党との違いが曖昧になったからこそ差異化が必要になったのであり、綱領的文書の改訂を通じて「自主憲法の制定」の党是が事実上棚上げされた。また、加藤紘一政調会長の尽力によって戦後50年の国会決議も実現した。

右傾化する自民党とその限界

この党執行部の主導によって右派的な理念を掲げ、安定した支持基盤を構築しようという試みは、②の多数の党員を持ち集権的な組織政党の建設を目指す党近代化論の復活のようにみえる。 自民党の機関紙にも、国政選挙の候補者選考に際しての公募や党員参加の予備選挙の実施について、「議員政党から党員・党友を中心とした組織的国民政党に生まれ変わるための胎動」と説明している例がある。しかし、少なくとも現在のところ、かつてのような組織政党の建設に向けた積極的かつ体系的な構想が、自民党のなかに存在しているようにはみえない。右派的な理念についても、公募や予備選挙など無党派層を意識したオープンな候補者選考によって緩みかねない党の結束を固める効果はあるとしても、有権者の間に党組織を浸透させ、支持を広げる効果までは十分に持ち得ていない。

自民党はどこに向かっていくのか。それを正確に見通すことは難しい。しかし、自民党の理念と組織の変容の歴史が今後も続いていくことだけは確かである。

注

卷末資料

①主要政党の変遷
②自民党の派閥の変遷
③総選挙と参院選における主要政党の獲得議席数の推移
④自民党支持率と無党派層の比率の推移

関連年表

人名索引

自民党政治の変容 (NHKブックス ; 1217) | NDLサーチ | 国立国会図書館