Dribs and Drabs

書評じゃなくて,ただのメモ

髙比良くるま『漫才過剰考察』辰巳出版 779.14

分析と言語化で、M-1歴代最短芸歴での優勝を果たしたお笑いコンビ「令和ロマン」の高比良くるまによる最新鋭の漫才論。霜降り明星・粗品との対談も収録する。『コレカラ』連載に大幅に書き下ろしを加え、再構成し単行本化。

これまで

インタビュー

M-1グランプリ

司法解剖

達成感より不満が勝つとは。それだけM-1の成功を切に願っていたんだな僕は。自我が個人ではなくM-1に宿ってしまっていたんだ。敗者に失礼? めっちゃそうかも。勝っといて。なんで勝っちゃったんだとか言って。でも不戦勝って感覚なんだよあくまで。こんなデータ系のキャラが優勝する漫画見たことあんのか?『ベイビーステップ』の丸尾くんだってベスト4とかで終わるんだよ。あー納得いかない納得いかない納得いかない! あんなに理想の決勝を考えたのに! どうしてこうなったか、考察しないと前に進めない。M-1グランプリ2023を司法解剖だ。無免許で。

比較合戦のムードになったときに、この「前説感」が「達者感」に変わってしまった。/ それによって他の組の「仕上がり」を「台本感」に変えてしまった。/ つまりアドリブっぽさ、こなれ感という厳かな決勝の舞台では軽薄に映りかねない要素が、このお笑いアカデミーでは「自由」に見えたのかもしれない。/ 教育実習生が勝手に1時間目を自習にしたから、2時間目から学級崩壊が起きてしまったのだ。害悪OB令和ロマンくん、お世話になった先生にお礼参りの巻、じゃないんだよ。

こうして少しずつ狭まったネタバレ包囲網がついに決勝を捕らえてしまった。ただでさえネタを把握してる状況にあの香盤が重なり、もはやお笑い学会と化した客席は、芸人へのリスペクトを抱いたまま、粛々と漫才を見守る団体のようだった。

使命感に燃えながら1番手で向かう。ツカミをダラダラ喋りながらこっそり生徒からお笑い教科書を回収する。漫才は楽しいだけだぞー! 考えなくていいぞー! 吉本にはこんな人がいるぞー! 代わりに絵で笑えるお笑い漫画を配り直し、コントの途中でオチもなく逃走!! 続くヤーレンズさんはその漫画の青年誌版をバラ撒いていく。考えずに笑える、楽しいお笑いライブがついに完成した。そして満を持してトップ通過のさや香さんが登場!したと思ったら急に見たことないPDFを配り出し、また漫画がもらえると思っていた子どもたちを困らせてしまったとさ。

たらればの話も、したらばの話も、しても仕方がないけれど、とにかく理想の決勝にはならなかったこと、そこで優勝してしまったことも事実で。そしてあの優勝の瞬間に、喜びよりも後悔が勝ってしまったことも事実だ。/ 来年こそいい大会にしたい、その想いから即座に「来年も出ます」という宜言がこぼれ落ちた。ボケだと流され、本当に出ると言い続けても「本当に出るの?」と聞かれ続ける8月現在。とりあえず現状M-1に向けて考えられる全てのこと、現在地から分かる漫才の景色、誰よりも自分のために整理させてほしい。考えるのは芸人らしくない! 考えていたとしてもそれをひけらかすな!とタイタンの両手グー男に怒られてしまうだろうが、頭でっかちに考えてここまで来てしまった人間だ。感覚でやってるフリをする方がカッコつけだと思うんだ。/ こっちは考える方が自然なの、「感じるな、考える」でやってんの。/ 逆・ブルース・リーなの。野菜は体にいいから食べてるの。だよね? ホリエモン。お前誰だよ。

2018

愚者だから経験に学んでみたけど賢者にもなりたいので歴史から学んでみよう。/ となると考えなきゃいけないのは、事件が起こった2023年に近いケース。パッと思いついたのが2018、霜降り明星さんの年。令和ロマンくん同様、不利なはずのファイナリスト最若手。そこが優勝しているということは、その追い風となる要素もあったのではないか、ということ。

とにかくそういった「テクニック過多」が頻発していた反動で、考えさせないシンプルさ・フレッシュさを持つ霜降りさんが突き刺さった、という流れなのかなと。塙さんが採点後、「面白い・面白くないじゃなく、強弱でいえば二人とも強い」とおっしゃっていたのが、まさに教科書回収の流れだなと。面白い、面白くないは学問だもの。

この結果から何が考えられるかというと、霜降りさんと令和ロマン、どちらもM-1における一つの流れが過熱しすぎたときに、それをリセットするようなタイミングでの優勝になっているということ。/ つまり新・M-1って2015~2018と2019~2023の2つに分けられるんじゃないか。芸人同士で技術を高め合う時代と、その技術に見慣れた観客との闘いの時代。2024を考える上でも重要になってきそうなこの2つ、一度流れをさらってい こぅ。

技術の時代

2015年、M-1再開。出場制限が結成10年から15年までに延長したことで、荒削りな若手の大会から仕上がった実力者の技術競争に切り替わった。/ 5年延びるだけで、と思われるかもしれないけど、この5年は特に大きい。高卒で養成所入って結成すると10年目では28、15年目では33。

この30超える辺りでちょうど漫才師としての「フィジカル面」が整い出す。線が細く、声も高い20代では漫才の説得力が感じられないことも多い中、少し代謝が落ちて太り出して、舞台で何度も枯れて声が低くなり、少しずつ台本が台本っぽくなく見えるような体に仕上がっていく。なんかスーツも似合い出す。/ 要は「おじさん化」なんだろうな。若い女性中心の観客の中で「男の子」から「おじさん」になることで生身の人間からキャラクターに切り替わってポップさが増す。でも老けすぎてはいけない。客席の肩頼を得ながら心配はされていない程度が大事。

そして技術負の中で、ある意味誰よりもフィジカルが仕上がっていたのがトレンディエンジェルさんだった。地の喋りで関西勢に勝つことは難しいけど、「ハゲネタ」という領域を展開してその空間で無双した。味という味、技術に見せない技術。

そしてその競争の先頭を走っていた和牛さんが4年連続で最終決戦まで残っていたことで、より転換味が強まったのもある。僕は常々2018の和牛さんの2本目、「オレオレ詐欺」のネタはM-1漫才の最高到達点だと語っていて、それは未だに破られていない。M-1という本来初見の状態で見られる場所に、もう「顔馴染み」として立つことでツカミやコントインまでの時間の短縮に成功。その分自由度が増した後半を展開し展開して、最後は睨み合いで終わる。本当に鳥肌立った。

花咲く漫才
「あるある」と「ないない」
2024

その「芸人総アイドル化」時代に肥大化したSNSが加わって問題が大きくなってる。/ 劇場内で静かに嫌い合っていたワーキャー的ファンとネタ原理主義ファンも、ネット上で「論争」ができちゃうから、派手にその話が展開しているように見えてしまう。その話題で出された芸人に対して「何となくファンが揉めてるイメージ」とかがついてしまう。そして特に思想のないファンもSNSを見て「揉めている芸人のファンの仲間」になりたくない、とかも考えてしまう。とにかく個人が全体に接続されている状態が精神衛生上よくない。

話を戻すと、ファンにまつわるピリつきと無縁の人が相対的に有利になっていくのか。/ 本人のファンはそれほど多くないけど、他の芸人のファンにもよくウケる「マスコット」タイプ。芸人間の評価が高くて、「台本力」で安定してウケを取る「いぶし銀」タイプ。ここら辺に追い風が吹く、というより無風の中どんどんオールを漕いでいけるのかもしれない。

うーん、すごいワクワクしてきた。/ 意外といい方向に進むのか大会は。/ これからの時代に必要な「ハッピー感」「愛され力」「パワー」、でもこれって本来、賞レース用の競技漫才じゃなくて寄席漫才に必要な要素じゃないか。そこに回帰しているのか?M-1グランプリが始まる前、オンエアバトルの時代もそういう漫才が強かったと先輩方も言っていたぞ。

ダークヒーロー

寄席

寄席とは

芸人間でよく言う「今日のお客さん寄席っぽい?」って質問は「お笑い初めて見る人っぽい?」って意味で、よく先輩方が前説の芸人に確認したりしている。

とにかく「お笑い詳しくない人」に向けてやるもの、としてわりと競技漫才と切り離されているイメージはあって、なんなら「競技漫才上がった人がやるもん」みたいな風潮はある。実際その要素はあるんだけども。その「寄席」に出演するにはテレビで売れるか賞レースでいいところまで行く必要があるので、競技漫才がある程度できるようになったところで寄席の漫才にも挑戦する、といった状態にはなっているから。/ でもよく考えたらおかしいんだよな。本来「お笑い好きを笑わせる複雑な漫才」より先に「初見を笑わせるシンプルな漫才」を磨くべきな気がするくないか?まずストレート投げれるようになってから変化球覚えないと、肘とか壊しちゃうでしょ、いや、だから壊してるのか実際。

ちょっと、いったん僕の解説で理解してもらっていいかな? 東京生まれで漫才ネイティブでも何でもない僕なんだけど、3年目くらいから寄席に駆り出されて、そこでスべりにスベりまくって、それでも何とかするために誰よりも先輩方のネタを袖から勉強したマンなので、ジェネリック・ジェネリック・ジェネリック師匠だと思ってもらって話を聞いてほしい。

客層

まず共有しておきたいこととして、寄席で重要なのは「ネタのクオリティ」より「お客さんとのマッチ度」だということ。初見のお客さんというのは必ずしも好意的ではなく、「本当にお金を払っていただいたんですよね?」と思ってしまうほど敵意剥き出しのときもある。とにかくお客さんの様子を見ることが大事だ。

理解と発声

「理解」だけされて、お客さんが全員ニヤニヤしてても失敗。「発声」だけ身について、全員「意味分かんないんだけど」とか呟き出したら学級崩壊だ。どちらも久けてはならない。

寄席最強芸人の一角、中川家さんの漫才は細かいモノマネ芸の連発。車掌さんや大阪のおじさんなどの鉄板ネタの前に、まず「笑顔の切り替え」のくだりで「サラリーマンがエレベーターで先方と別れるときの顔」のくだりから始めてることが多い。これって自分や相方の顔を使って「画像で一言」大喜利をしてるみたいなことだけど、実はそれが最も情報量が少なく伝わりやすいんだよな。台詞や演技というのは、手足の動き、発言の意味などお客さんが注目しなければならないポイントがたくさんあって、大袈裟にいえばマルチタスクを強いちゃってるんだ。

ここまでで寄席漫才の「根幹」が見えてきた。プリミティブでフィジカルな部分だ。/ じゃあフェティッシュな部分は何なんだろうか。/ いやちょっと待って、今ふざけてハリソン構文を使ってみたけど、これハリソンかなりいいこと言ってないか?/ プリミティブ=原始的な、お笑いを初めて見る人に向けて「人が人を笑わす」という初歩の部分と、フィジカル=肉体的な、視線を顔に集めるような身体へのアプローチの部分、それが肝心。その上でフェティッシュ=異常な興奮や執着があることが漫才としての「個性」になってくる部分だ。すごいぞハリソン。フェティッシュがなければ寄席 漫才マシーンになってしまうもんな。

また中川家さんになっちゃうけど、キレキレの鉄板ネタの間に剛さんがアドリブで細かすぎるモノマネを放り込んで、礼二さんが笑いながら「誰も分からんやろそれ(笑)」とツッコむ時間、あれまさにフェティッシュ。二人だけしか笑ってなくて、ある意味お客さんを置いてってるんだけど、置いてかれたからこそ追いかけたくなるんだよ。

プリミティブでフィジカルな部分がお客さんに「見下される、愛される」要素だとしたら、フェティッシュな部分は「見上げられる、尊敬される」要素、これ1:1じゃダメなんだ、フェティッシュが多すぎるんだ。それだと突き放しすぎている。2:1の割合で、1/3に留まってるくらいがちょうどいいアクセントになっているんだよ。割合まで教えてくれてるよハリソンが。地面師も漫才師も「師」だからなのか?地面っていうのは「舞台」みたいな意味なのか? まさか寄席の凄みを分解したらハリソンに辿り着くとは思わなかった。いつかNSCの先生とかもやってほしい。お酒は我慢してほしい。

東と西

もちろん最大の違いは「標準語」と「大阪弁」の違い。大阪弁という漫才における「標準語」。当たり前っちゃ当たり前なんだけど本当に重要で、江戸元禄期に文化と共に花開いたとされる大阪弁はとにかく漫才向き。商人の街で磨かれ続けたセールストーク用の言葉たちは、お客さんの懐に速く、短く飛び込めるデザイン。

まあ洋楽と邦楽の違いみたいなもんで同じ意味でも英語の方がギュッと詰まってる。この質量が大事なんだ漫才においては。ただの会話の質量を100としたときに、大阪弁を使うだけで120くらいに膨らむ。そのオーバーした20が観客に「普通の会話ではなく、作品性がある」と思わせる。極論何もボケなくても、ちょっとすごいことしてる感がある。最近でいえば金属バットの友保さんの「しゃーで」とかがそう。

そう考えると標準語のよさはボケが際立つことにある。間違いのないように設計された敬語ペースの言葉たち、その隙間にポンっとボケが入ると、そのギャップが大きい分、聞き手の予想を鮮やかに裏切ることができる。それ故会話としてのスピードは出せなくても、ボケー発のパワーがある。漫才コントのボケ役は、その場面にそぐわないことをし続けるわけで、ある意味会話としては成り立っていない状態になってしまっているけど、それが対話として完成度の高い大阪弁だと悪い意味で違和感が生まれちゃうんだよな。やっぱり関西では「フリ」が重要視されてて、その流れに沿った範囲でしかボケづらい。

フィクション・ライン

お客さんの理解が深い大阪では、漫才を深い地点からスタートできるので、フィクションのラインを高く設定することができる。例えば「刑事と犯人」の漫才コントをするときに、「刑事って憧れますよねえ」という台詞のみでスッとコントに入っても受け入れてくれる。

南と北

まず九州・沖縄、「南お笑い」を考えるか。博多華丸・大吉さん、パンクブーブーさん、天竺鼠さん、とろサーモンさん、スリムクラブさん。/ 西の延長か、いや、西の笑いが「ツッコミ→ボケ→ツッコミ」のツッコミ主導だったのに対して、ここら辺のみなさんはボケ主導だ。ボケがやりたいことをやっている漫才。からし蓮根さんもそうだ。あーだからフリ重視の大阪漫才コントの中でスピード感違うのか。何がそうさせるんだろう。

関西のように新喜劇や寄席の文化ではないはずで、強いていえば全体的に「宴会」の気配がある。ボケというか「本日の主役」みたいな人が前に出てきて変なことをする、陽気だから突然ボケる。

そう考えると「北お笑い」は逆にボケ・ツッコミニ二人の世界な気がする。/ タカアンドトシさん、サンドウィッチマンさん、トム・ブラウンさん。北海道・東北、北陸もそうか、寒い地域のみなさん。/ ボケ主導で「南」よりちゃんとツッコんではいるけど、二人で合意の上でじゃれ合ってるというか。めちゃくちゃ仲良い同級生のノリを覗き見ているような感じだ。/ トム・ブラウンさんはいわずもがな、タカトシさんの「欧米か」も「〇〇か」っていっぱい言う遊びっぽいし、サンドさんの「いちばん興奮するのは~」って入りもこれからじゃれ合いますって宣言みたいなもんだ。

あと新潟出身のケビンス・山口コンボイ氏が「新潟は雪降るから家でめちゃくちゃテレビ見る。ローカル番組も関東・関西どっちも映るからテレビの影響が濃い」って言ってて、その要素もあるなと思った。

そんな中、対画面への熱量を持つ「北お笑い」はこの時代を先取りしていたともいえる。現にHIKAKIN さんは新潟出身だし、はじめしゃちょーさんは富山出身、YouTubeに大事な内輪性を北で身につけて飛び立っているんだ。

ボケ主導でボケが客席に向き合う「東」。/ ツッコミ主導でコンビが互いに向き合う「西」。/ ボケ主導でツッコミが客席に向き合う「南」。/ ボケ主導でコンビが互いに向き合う「北」。

新しいものへの評価が高いことはいいことだ。いいことなんだけど、いつまでも漫才が直線的に進化するフェイズだと思ってしまうと、どこかで無理が出てくるんだよ。「これは〇〇さんのやってたネタに近いんじゃないか」とか悩みすぎてネタを捨ててしまう後輩の話をよく聞く。もう漫才が完成している以上、ある程度似てくることは仕方がないことなのに。丸パクリはダメだよ、でも寄席の技法とか表現っていうのは受け継がれていくものだし、その上でそのコンビごとの姿形や生まれ育ちでしか出せない味が出てきて、それを「個性」と呼ぶというのに。

世界

個人的にもこの風潮には飲まれかけている。Netflix や Amazonの番組に出演すると、やっぱりここには噂通り巨額の予算があるんだという事実をまざまざと見せつけられるし、「ドキュメンタル」は「LOL (Last One Laughing)」という名前で世界中でリメイクされて、とんでもない金額が動いている、というのを耳にすると、もちろんお金が欲しいという気持ちも分かるし、何よりこれだけの大舞台で勝負してみたいという気持ちがくすぐられる。かつての舞台芸人が地上波テレビに対して高揚したように、より強い光に集まっていく。永野さんの言う通り、漫才師は明転した舞台に飛び込んでいく蛾のような習性があるので。

対談 霜降り明星・粗品×令和ロマン・髙比良くるま

本文注釈

おわりに

漫才過剰考察 | NDLサーチ | 国立国会図書館

779.14